Fragments

来々ゾンビーズ(仮) 4

「何だ、ココ…」
全員が集合した時点で、瑞貴が再び仕掛けを操作し隠し通路を出現させたのを見て、赤也が眉根を寄せてそう呟く。
3階を2階から完全に隔離し、扉の前に仕掛けまで施していた赤也たちだったが、十夜に呼ばれて仕掛けのある壁まで連れてこられたものの、実際に仕掛けを見るまでは普段通りの明るさを残していた。
けれど、瑞貴が無言で壁の仕掛けを操作する様子に軽く目を瞠ったかと思えば、目の前で壁が動き、薄暗い通路が姿を見せると彼らの表情は驚愕へと変わっていく。
その様子に、十夜は驚いたのは自分だけではなかったのだと安心しながらも、既にこのあり得ない状況を受け入れている瑞貴や雅臣に対して微かな疑問を抱いていた。
「…もしかすると、コレで開くのかもしれんぞ…」
十夜は先ほど拾った蛇の模様のカードキーを取り出し、赤也に差し出して見せる。
「試してみるか?」
いつになく慎重な様子で、赤也は十夜からカードキーを受け取ると友人たちを振り返った。
薄暗い通路は辛うじて足元が見える程度だが、ドアに当たる部分だけは操作盤があるためかやや明るい。
赤也の問いに、十夜と祐一は思わず顔を見合わせてどちらが正解だろうかと視線で問いかけ合う。
開けて、もしアレが出て来たとして、対処できるだろうかという疑問。
出てこなかったとしても、何の手がかりもない可能性もある。
「そうすれば、もしかするとココが何なのか解るかもしれませんね~」
賛成も反対も躊躇われる空気の中、雅臣がのんびりとした口調でそう言った。
壁に耳を当て、中を窺うような仕草をしていたが、何も聞こえなかったのかへらりと苦笑を浮かべる。
「ちょっと待て。開けて、何か出てきたらどうする」
制止するような声をかけたのは拓海で、一瞬だけ気遣うような視線を瑞貴に向けた。
もし、アレが出て来たとして、という声に出さない言葉は、正確に友人へと伝わったようで、赤也はまさに読み取り部分にかざそうとしていたカードキーをピタリと止める。
「…今、3階に閉じ込められてるんだよね…?」
自分たちの置かれている状況を、アレから逃げて3階に引きこもったのではなく、偶発的な事情で3階に閉じ込められてしまったと教えられたらしく、瑞貴が不思議そうに首を傾げてみせた。
「…あ、あぁ。そうだが?それがどうかしたのか?」
一瞬だけ言葉を詰まらせた後、祐一が笑顔を張り付けたような表情で瑞貴を振り返る。
ある意味では、友人に嘘を信じ込ませた状態なので、うっかり閉じ込められたのではなく逃げ込んだだけで、この先にも脅威があるかもしれないなどと考えているという事実は、間違っても口には出来ない。
「食べるものとか、朝一緒に確認した分だけなんでしょ?だったら数日分だよね。それなら、少しでも進める場所が増えた方がいいんじゃないの?」
何故先へ進まないのかと、瑞貴は心底不思議そうな表情で友人たちに問いかける。
アレから逃げただけだと知らない瑞貴からすれば、隠し扉の先に危険なモノがあるという発想はないのだろう。
「最終的に3階から飛び降りて脱出なんて、みんな困るでしょ?」
さらにそう言って、瑞貴は軽く笑って見せた。
確かに、ただ閉じ込められているだけならば、最終的には飛び降りれば脱出は出来る。
しかし、普通の3階よりも高い位置だと思われる3階から飛び降りて全員が無傷でいられるかと聞かれれば、恐らく無理だろう。
「…じゃあ、試してみるか…」
赤也は意を決したようにカードキーを持ち直すと、カードリーダーに通した。
ピッと音が鳴り、ガチャリと重い音がドアの奥から聞こえる。
「…はは…っ、開いちまったよ…」
僅かな隙間が自動的に出来、赤也はそれを見て乾いた笑いを浮かべた。
「さて、鬼が出るか蛇が出るかといったところだな…」
一体この先には何があるのかと、警戒した様子で祐一が呟く。
「俺が先に進むから、少し待ってろ」
ドアに手を掛けようとした赤也を制し、ドアを押すようにしたのは拓海だった。
「な…、拓海、待てよ。オレが行くって」
率先して中へ進もうとする親友の引き留めるように、赤也が拓海の腕を掴む。
中に何があるか分からないような場所に友人を向かわせたくないというその様子は、普段の赤也からは想像出来ないような強い意志の光を宿しているが、元々かなりの責任感と正義感を持つ赤也の、これが本来の姿だった。
直情型で後先を考えない傾向にはあるが、人一倍友人たちのことを考えている赤也は、当然ながら真っ先に自分が危険な可能性がある場所へ赴くつもりだったのだろう。
「赤也の場合、何か大事な物を破壊しそうで怖いからな。俺が先に行くほうが確実だ」
腕を掴む赤也の手を払うと、拓海はそう言って微かに笑って見せる。
赤也同様、拓海もまた並はずれた責任感と正義感を有しており、同時に赤也よりも冷静に状況を判断出来る点から普段はあまり表には出さないが、拓海は拓海で自らを危険に晒すことは厭わないらしい。
一瞬だけ睨みあうように視線を交わした赤也と拓海だが、拓海は赤也の視線を振り切るようにしてドアの向こうに姿を消した。
残された赤也は、小さく舌打ちをしただけですぐに後を追ったりはしない。
もしも、何かあった場合、最悪のケースを想定すれば、友人たちを守らなければいけないという責任感が赤也をその場所に縫い止めていた。
シークレットサービスとしての訓練を受けている彼らは、時には非情に切り捨てることで優先順位に沿って動かなければいけないという鉄則を熟知している。
それがどういうことなのか、彼らはその重みを知った上で行動しているのだが、残念ながらそこまでの覚悟が本当に出来ているわけではない。
「…大丈夫そうだ。というより、更に奥へ進むには再びカードキーが必要なようだぞ」
程なくして、ドアの向こうから拓海の苦笑交じりの声が響く。
知らず息を詰めていた赤也は、ほっと息をつくとドアを押し開いた。
「…映画のセットか何かか?コレは…」
ドアの向こうの光景に、十夜が思わず漏らした感想はソレだ。
だだっ広い空間に並ぶ、たくさんの機械、モニター、それに用途の不明な子供なら入れそうなくらい大きな巨大な試験官のような装置、それから用途の不明な機器がたくさんついた寝台のようなものまである。
寝台のようなと評したのは、まるで病院にある全身をスキャンする装置のようなドーム状の機械がついているので、むしろ検査用の機械という方が似合いかもしれない。
管が通された機器なんかは、病院の集中治療室なんかで見かけるような物に似ている気もするし、その隣には心電図や脳波を計る機器に似たような装置まで並んでいるが、どれも知っている装置よりも仰々しく見えた。
この場所が近未来を想定したSF作品の撮影のためのセットだと言われたら納得するような、そんな設備に見える。
「誰もいないのか…?」
広い部屋を見渡し、祐一が首を傾げた。
装置の電源は入っているようで、小さな駆動音が部屋に響いている。
それなのに、本来ならそこに存在しているはずの、機器の数値を観察しているはずの人間が存在していない。
「…この奥じゃね?」
部屋の奥に、入ってきた場所と同じような造りのドアを見つけて赤也が指を指した。
先に部屋に入った拓海は当然ながらそのドアの前に立っている。
カードキーは変わらず赤也の手の中にあるので、拓海はその先に進むことが出来なかったらしい。
「あ~成程~。通りでドアが全部開かなかったワケですね~。廊下のドアはただのフェイクだったんですねぇ~」
部屋の広さを見て、大体の距離を測ったらしい雅臣が納得の様子で頷いていた。
拠点としていた談話室から突き当りの壁までの大凡の距離は、現在の部屋で半分くらい使用している。
つまり、更に奥へ進めば、寝室としていた部屋の隣、正確にはシャワールームの隣まで続いている可能性があるのだ。
「…何だ、これは…」
ふと、作業用の机らしき場所に無造作に放置された書類が目に留まり、十夜は首を傾げた。
視線の先には1冊の分厚いノートと、部外秘と転載禁止の赤文字が大きく目を引く緊急対策マニュアルと書かれた冊子が置かれている。
元々は割印付きの紙で封されていたらしい緊急対策マニュアルの封は既に切られており、よほど慌ただしく中身を読んだのかぐしゃりと握りつぶしたような跡が残っていた。
十夜は中身の予想が出来ない分厚いノートを手に取ると、ペラリと捲る。
その拍子に、間に挟まれていた何かがヒラリと落ちた。
「…写真だな」
たまたま足元まで飛んできた何かを拾い上げると、拓海はそう言って肩を竦める。
「何か書いてあるか?」
赤也が、十夜の手の中にあるノートを見てそう問いかけた。
「…変な単語がたくさん並んでいるが、何だろうな、コレは…」
パラパラと捲りながら、十夜はさっぱり理解出来ないノートの文字を追う。
ノートには何かの暗号か隠語だろう記号やアルファベット、数字の羅列の他に、壁の隠し扉を開ける際に瑞貴が呟いていたセフィロトの樹に関する単語や、果てはルシファーやマモン、レヴィヤタンなどの悪魔の名前までが書かれてあり、ここはオカルト研究施設や錬金術研究所だったのではないかと思わせるような言葉ばかりが並んでいる。
パラパラと捲っていた十夜の手が、ある1ページで止まった。
「…失敗した…?」
ノートに書かれていたのは、見開きいっぱいを使っての、失敗したという震える文字。
強い筆圧で書いたのだろう、ぐしゃりと紙が歪んでいる。
恐る恐る次のページを捲れば、一面に何度も書きなぐられた失敗したという言葉。
さらに捲れば、ごめんなさい、すまない、許してくれ、謝罪の言葉ばかりが並んでいた。
「…何だ、コレは…」
訳が解らず、十夜はページを繰る。
たくさんの懺悔のような言葉がびっしりと書き込まれたページは、このノートの持ち主が如何に深く後悔をしていたのか察せられるような、ただひたすらに、誰かに向けての謝罪の言葉だった。
深すぎる後悔と懺悔の言葉の羅列と共に、意味の理解出来ない言葉が並ぶそのページを凝視したまま、十夜は手を止める。
一体、何なのだろうという疑問だけが何度も頭の中を行き来するだけで、友人たちにどう説明すれば良いのかすらわからない。
「何が書いてあるの?」
ノートを手に固まった十夜の様子に、何事だろうと不思議そうな表情で瑞貴が近づいたかと思えば、ひょいっとノートを覗きこんだ。
「…えっと…」
ノートの文字を追う瑞貴は、少し読み進んだ辺りで困惑の声をあげる。
恐らく、十夜同様、この内容をどう説明していいのか解らないのだろう。
「…研究は失敗した。この悪魔の研究は、このまま凍結させるべきだ。悪魔の研究の犠牲になった子供たちには、一体何と詫びればいいのだろうか。我々は手を出してはいけない禁忌に手を出した。願わくば、せめて人間らしく安らかな最期を与えてあげたいが、もはやそれも叶わないかもしれない。本当に、どう償えばいいのだろうか」
ノートに書かれてある部分のうち、意味を成す部分だけを拾って瑞貴が淡々と要約した内容を呟いた。
全文を通して、そんな意味の内容ばかりがひたすら繰り返されている。
十夜の手の中にあるノートのページを、瑞貴がペラリと捲った。
「…この研究は完全に失敗した。神の子になるはずだった子供は、人ならざる存在に変容した。誰にも止められない。せめて無事な子供だけでも助けたいが、成功作と呼ばれた子供たちも同じ因子を保有している。それに、もはや全てが手遅れだ…?」
次のページに書かれてあった内容も要約して読み上げた瑞貴だが、そこまで進めた時点で小さく首を傾げる。
文字が多くてまだ同じ部分まで要約出来ていない十夜は、必死になって読み進めながら、難しい何かの隠語やらだけを全て省いてきっちり内容を拾っている瑞貴に感心しながらも、いったい何に首を傾げたのかと疑問を覚えた。
たくさんの後悔や懺悔の言葉の中に、垣間見える絶望がノートを埋め尽くしている。
読めば読む程、一体ここで何があったのかと十夜は訝しみながらも必死で読み進めた。
そのページの最後には、生きてという今までに1度も出てこなかった単語が姿を見せ、思わず十夜はその前後の文章を読み直す。
そこに書かれてあったのは、どうか逃げて、生きてという祈りのような言葉。
絶望の中に最後に残った、唯一の希望。
そのページの終わりまで十夜が読み進める頃には、瑞貴は既にノートから視線を外して、興味を失ったかのようにドアの方にいる赤也と拓海の方へと歩き出していた。
それでも十夜は、希望の綴られた言葉の続きが気になって、ページを繰る。
最高の成功作にして、最高の失敗作。
唯一の可能性。
最初の2行に続く1行で、十夜は反射的にノートを閉じた。
「どうした?」
あまりにも十夜の様子が妙だと思ったのか、祐一が近づいてきて十夜の手からノートを奪う。
「…ふむ?」
既に十夜がノートを閉じた後だったため、祐一が開いたのは適当な別のページのハズなのだが、そのページには彼の興味を惹く何かが書かれていたらしい。
「ここに書かれてある数字やら記号は、恐らく何等かの薬品やそれに類するものの略称だろうな」
少し読んだだけで、祐一はそう結論付けるとノートを閉じる。
早急に読み解かねばならない内容ではないという判断なのか、それとももう読み解いたのかは分からないが、今優先すべきは別の内容だと判断したのだろう。
「何か役に立ちそうな内容でも書いてあったか?」
ノートの内容に僅かの疑問を持ったのか、赤也が祐一に向けてそう問いかけた。
「…いや。今、役立つ内容は全くなさそうだ」
祐一は肩を竦め、あっさりとそう断じる。
「薬物やら何やらが書かれているんじゃないのか?」
少しだけ内容を読み解いたはずなのに、何の役にも立たないというのは一体と、十夜は疑問の目を向けた。
「十夜、日付を見なかったのか?このノートが書かれたのは、軽く10年程前のようだぞ」
肝心な部分を見落としたなとでも言いたげに、祐一は人の悪い笑みを浮かべてみせる。
「んじゃ手がかりなしか。こっちのドア、開けるぞ?」
何もないなら仕方がないと、赤也が部屋の奥のドアを指した。
今度は突入役を譲る気はないらしく、近くにいる拓海や瑞貴を制するように1歩前に出てカードキーを閃かせる。
ピッと音を立てて、ドアが開いた。
先程のように、小さく開いたのではなく、左右に勢いよく。
それは、完全な油断、慢心。
勢いよく左右に開いたドアの向こうには、ゆらゆらと揺れる人影。
照明は、部屋に並ぶモニターの仄暗い光だけ。
その中に浮かび上がる、虚ろに揺れるモノ。
まるで、振り子のように。
ゆらゆら、ユラユラと。
ヒトだったモノが宙吊りになった状態で、虚ろに揺れている。
ドアを開けた瞬間、錆びた鉄の臭いが、一気に充満した。
ゆらゆらと揺れるモノの下には、折り重なるように転がる、ヒトだったモノたち。
ソレらは全て、完全に事切れた後だ。
床は一面、塗り替えられたような色に染まっていた。
「……コレ…?」
宙吊りで揺れるモノに視線を向けたまま、茫然と呟いた瑞貴は、答えを求めるように背後の友人たちを振り返る。
幸いにも、まだ床に転がるモノには気付いていないのだろう。
「大丈夫ですよ~何でもないですからね~」
再び瑞貴が振り返って床に転がるモノに気付く前に、雅臣が穏やかな表情で手招くのが見える。
暗がりとはいえ、
「…やっべぇっ」
衝撃から立ち直ったらしい赤也の慌てた声が響くのと、ドアが閉まる音がするのは同時だった。
ドアが閉まってしまえば、視界に残るのはただの壁とドアだけだ。
それでも、室内に充満した臭いが、ドアの向こうの光景が見間違いではなかったのだと教えてくれる。
ドアの向こうに見た光景を思い出し、十夜は思わず部屋から飛び出して廊下まで走ると大きく深呼吸をした。
余りにも生々しい臭いのせいで、内臓がひっくり返りそうになるのをなんとか堪えると、壁に手をついて自分を落ち着かせるように目を閉じる。
薄暗がりの中、振り子のように揺れていたのは、今まで虚構のドラマなどでしか見たコトの無かった、首吊り死体に他ならなかった。
映像で見たことのある現実味の薄いさほど恐ろしくもないソレとは異なり、舌が飛び出て眼球を剥きだしにしたソレは恐ろしくバケモノのような外見へと変容していて、怖いとか考えるよりも前に何よりも気持ち悪い。
宙で揺れていたのは、一瞬しか見なかったが壮年から初老くらいの男性だったように見えた。
白衣ではなく、赤衣というべき色に染まっていたが、形状は白衣と呼ばれるモノを纏っていて、もしかしなくてもあの部屋で何かの研究をしていた人間なのだろう。
そして、床に転がっていたのは、人間だったモノ。
数は正確には解らない。
折り重なるようにして、床に伏していたのだから。
ただ、推測するなら、赤黒く変色した床と、同じ色に染まった白衣だっただろうモノを纏ったソレらも同じく研究者だったはずだ。
たぶん、何かが起こって。
あの床は、何らかの手段によって傷つけた証拠で。
そして、最後に残ったモノは、首を吊った。
一体何がと、気持ち悪さを堪えながら考える十夜の脳裏に、ノートの一文が過る。
失敗した。
研究は、失敗だった。
悪魔の研究。
「…いきなり1人で出て行かないでよ」
不意に、背後から声を掛けられ、十夜は反射的に大袈裟なほど驚いて声を振り返る。
そこには、困惑した様子でぱちりを目を瞬かせる、瑞貴が立っていた。
「…どうしたの?そんなに驚いて」
キョトンとした様子で、瑞貴は十夜の様子が不可解だとでも言いたげに首を傾げてみせる。
「…見ただろう…?」
あんな光景を目の当たりにして、恐らく1番正気を保っていられないはずの瑞貴が、不思議そうに覗きこんでくる様子に、十夜の方が一層の疑問を覚えていた。
見たはずなのに、何故普段と変わらない様子のまま、いられるのか。
もしかして、恐怖のあまり壊れたのだろうかと不安にならないでもない。
「見たって、何を?」
何を言われているのか理解出来ないという様子で、瑞貴は不思議そうな表情を十夜に向けた。
「何って…あの部屋の奥に…」
まさか首吊り死体と血塗れの床に転がった死体とは言えず、十夜は言葉を濁す。
もしかして本当に認識せずにすんだのだろうかという淡い期待と、確実に目にしているはずだという確信に葛藤しながら。
「えっと…。…何かが揺れてたのは、見えたけど…。何か確認する前にドア閉まっちゃったから」
瑞貴は十夜の問いに、小さく苦笑しながらそう答えた。
一応何かを見たという自覚はあるらしいが、ソレを認識する前に視界が閉ざされたのだと。
「…見なかったのか…」
良かったと、十夜は大きく息をついた。
恐らく、揺れる何かに気を取られ、床の惨状を見ずに済んだのだろう。
自分よりも対象に近い場所にいたことも幸いしてか、視界の中央だけに気を取られ、それを認識せずに済んだようだ。
「…え?…だから、見たけど…?」
見てないわけではないと、瑞貴は深く安堵の様子を見せた十夜に困惑気味の表情を見せた。
会話が噛みあってないとでも言いたげなその様子は、あの惨状を見ずに済んだと十夜が確信できるほど普段通りだ。
「いいんだ、気にするな」
相手の様子に、十夜は勝手にあの惨状を見ずに済んだのだと理解し、笑顔を浮かべる。
大事な相手にとって忌避すべき光景だと解っているからこそ、安心できるのだ。
「単独行動は禁止だっての」
そこへ、赤也が隠し通路の向こうから姿を見せた。
軽口に滲む案じるような声音に、十夜は視線を向ける事で大丈夫だ、問題ないと応える。
「単独行動にならないように、追いかけたでしょ?」
瑞貴は瑞貴で、単独行動ではないと小さく抗議の声を上げた。
正確には、十夜が勝手に出て行ったから単独行動にならないように追いかけたという主張だ。
「わかったのは、この先は行き止まりということだな。もう、この先へは立ち入らないということで異論はないな?」
壁の隠し扉の前に立ち、再び向こう側へ行くことを留めるような場所で祐一がきっぱりと言い切った。
その手には、先程のノートだけではなく机に置いてあった緊急対策マニュアルまでがしっかりと持たれている。
抜け目ないというか、この状況で冷静さを失わないのは尊敬を通り越して驚愕の域だと感じながら、同時にここまで冷静さを欠いているのは自分だけではないかと十夜は愕然としていた。
「…というか、もう1度行ける構造なの?」
そんな簡単に出入り出来る場所なのかと、瑞貴は壁を指して首を傾げる。
「元々はお前が仕掛けを解いたんじゃないのか?」
そう言いながら、拓海は最初に仕掛けを解いた瑞貴がしてみせたように閉じてしまった壁の上の幾何学的な模様を指で辿った。
恐らく決まった順番通りに光る丸を辿った後、瑞貴がやってみせたのと同じように、最後に見えない場所に触れる。
しかし、隠し通路は姿を現さなかった。
代わりに、『認証に失敗しました。始めからやり直してください』という機械的な声が壁の向こうから響く。
1番最初に雅臣が失敗した時と同じだ。
「…何だコレ、どーいう仕掛けだ…?」
赤也がその隣から同じように光る丸を辿ってみせるが、やはり結果は同じだった。
「ずいぶんと高度なセキュリティですねぇ~。これじゃ、もうココに入れませんね~」
別に入らなければいけない用事も無さそうだが、というより入りたくはないが、雅臣の暢気な声に十夜は思わずそれでいいのかと怒鳴りそうになる。
「…やっぱり、どうにかして下の階に降りないと、ここから出られないみたいだね」
本格的に閉じ込められたと、瑞貴は困ったように笑ってそう言った。
確かにある意味では嘘を教えた結果なのだが、何も知らないからこその場違いな明るさに救われるような、逆に少しだけ怖いような気がして、十夜は言い知れぬ不安を覚える。
「じゃあ、オレ、もっかい階段見てくるからさ。オマエら、昼飯の準備と休憩してろよ」
いつまでもこんな場所にいたくない、いさせたくないという思いを一層強くしたのか、赤也が何かを決意したような表情でそう言った。
「赤也だけで行かせると、間違いなく壊しちゃいけないものを壊しそうだから、俺も行こう」
有無を言わせぬ口調で拓海までもがそう言って、赤也に意味ありげな視線を向ける。
「オレが破壊神みたいな言い方すんのやめろよ、拓海ぃ。別に破壊活動に勤しんだ覚えはねーよ」
軽口で応じながらも、赤也も同じように意味ありげな視線を拓海に向けた。
言葉にせずとも通じる何かが、幼馴染で親友のこの2人にはあるのだろう。
「…では、俺は腕によりをかけて昼食でも用意しよう」
祐一はそう宣言すると、赤也と拓海にそれで問題ないなというような、問いかけるような表情を見せる。
「ああ。ウマい飯を頼むぜ!ちょっくら肉体労働してくるからさ」
ニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、赤也はそう言って片手を挙げた。
「破壊活動の間違いだろ?まぁ、俺も行ってくるから、あとは頼んだぞ」
わざとらしく肩を竦めると、拓海はそう言って赤也以外の友人たちに笑顔を見せたかと思えば、そのまま廊下を歩き出す。
「それじゃ、ボクは祐一さんの手伝いでもしてますね~。こっちはお任せください~」
雅臣は廊下を歩いて行く赤也と拓海に手を振って、笑顔でそう見送った。
「ええと…どっち手伝えばいいかな…料理?破壊活動?」
二者択一の選択肢に、瑞貴が首を傾げながらちいさく呟く。
どことなく緊張感に欠けるというか、唯一切迫した事態を知らないからこその穏やかな空気のせいで、張り詰めていた空気が削がれる感じがした。
「どっちも手伝うな。貴様は…俺と一緒に談話室で待ってるのが仕事だ」
料理には刃物や火が付いて回るので祐一と雅臣を手伝わせられるはずもなく、かと言ってアレの動向を探りにいっただろう赤也と拓海の後を追わせるわけにもいかないと、十夜は瑞貴の手を引いて勝手にそう決める。
「…つまり、役に立たないから大人しくしてろってコト…?」
どことなく楽しそうな表情で、瑞貴は手を引く十夜を覗きこむとそう笑って訊いた。
「そういうことだ。貴様に手伝える事などないだろうからな」
日常と変わらないくらい明るい瑞貴の様子に毒気を抜かれたというか少し調子を取り戻した十夜は、馬鹿にするような表情を作るとそう言って笑って見せる。
「…え、自分で役に立たないって認めちゃうの?」
瑞貴は、役に立たないと断じられた自分同様大人しくしてる側の十夜に、自分もそっち側だと認めるんだと可笑しそうに笑った。
「俺の事じゃない!役に立たないのは貴様だ、貴様!」
言われて、一瞬だけ確かに役には立っていないと自覚した十夜だったが、普段の調子で思い切り怒鳴り返す。
結局、落ち込もうが何があろうが、こうして気持ちを浮上させてくれるのは、決まって目の前で笑顔を見せてくれる相手なのだと、十夜は少しだけ悔しくなった。
「そんなことないよ?ちゃんと役に立てるからね?」
心外だとでも言いたげに、瑞貴は小さく口を尖らせてそう言うと、少しだけ拗ねたような表情を見せる。
いつもよりだいぶ子供っぽい様子に、十夜は一瞬面食らいながらも、いつも空気の読み方は天才的な相手だからどことなく陰鬱な空気を払拭するためなのだろうと納得した。
確かに少しばかり意外な様子ではあるが、その表情を見ただけで和やかな気持ちになれるから不思議だ。
「貴様がそんな子供っぽく言い返すのは珍しいな。やはり、役に立たない自覚があるんだろう?」
だから、言い返すのは、軽い口調でなければならない。
十夜は陰鬱な気持ちを完全に払いのけるように、からかうような明るい口調でそう言う。
本心からそう思っているわけではないのだが、少しでも明るく振舞わなければと自分に言い聞かせて、あえて軽口を叩く。
何も知らされないまま、それでも周囲の空気に合わせて普段より明るく振舞って調和を図っているように見える大事な相手に、何が起こっているのかを悟られないように。
それが、自分に唯一出来る、相手を護る手段なのだと、十夜は考えたからだ。
物理的に護ることなど、絶対に不可能で、逆に護られることになりかねない。
だったら、せめて、何も知らないまま、怖いモノを見なくて済むように、気付かずに済むように振舞おうというのが、今出来る最善なのだと強く拳を握る。
「暇になるのなら、2人でこのノートとマニュアルの解析でもしててくれ」
一通りのじゃれ合いを見守った後、祐一はそう言って手に持っていたノートと緊急対策マニュアルを十夜に手渡した。
それを合図に、残された4人は連れだってダイニングルームへと歩いて行く。
そのままキッチンへと消えていく祐一と雅臣を見送り、十夜は瑞貴と一緒にダイニングルームのソファに腰を下ろした。
祐一に言われた通りにノートを広げ、再び内容に目を通しながら首を傾げる。
「悪魔の名前やら、生命の樹に関する内容やら、錬金術でも研究してたのか…?」
数字や記号に関してはさっぱり理解が出来ないが、何とか理解出来るというか意味を成す単語を追いながら、十夜が抱いた感想はそんなものだった。
悪魔の研究という単語、悪魔の名前、セフィロトの樹、それらから導き出せる内容は、オカルトじみたそんな結論にしかならない。
「…ある意味、そうかもね」
十夜の手元のノートを覗きこんでいた瑞貴が、面白くなさそうに小さく呟いて肩を竦める。
まるで呆れているような様子にも見えて、十夜はどこに呆れるような内容があったのかとノートに視線を落とす。
しかし、読み取れるのは意味不明なオカルトっぽい用語ばかりだった。
「…ある意味って、錬金術の研究か?どこに書いてあるんだ…?」
自分を遥かに凌ぐ理解力を持っていると知っている友人に、十夜は控えめに問いかける。
まさか本当にそんな内容が書かれているのだろうか。
だとすれば、一気に現代日本というところからかけ離れて非現実的で非科学的だと思わなくもない。
「人為的に超人を造る研究みたいだから。それって、まるでホムンクルスみたいでしょ…?そうやって造られた存在は、人間なのか、それとも人間じゃないのか、まさしく悪魔の研究の名に相応しいと思わない?」
口元に微かな嘲りの笑みを浮かべ、瑞貴はノートを見もせずにそう言った。
既に開かれたページの内容は全て把握してしまったのか、まるで興味がなさそうだ。
「人為的な超人…?ホムンクルス…?」
ますます現実感が遠のく単語に、十夜は訝しみながら友人に視線を向けた。
そんな単語は、近未来がテーマのSF小説くらいでしかお目にかからないものだと思っていただけに、友人の口から告げられた内容に現実味を感じられずに茫然と相手を見るくらいしか出来ない。
「生まれる前とか、生まれた後とかに遺伝子を操作して、完全に調整された人間を造る研究みたいだけど。それで、何か致命的な失敗でもしたんじゃない?失敗したって書いてあったし」
興味なさそうにそう言うと、瑞貴は緊急対策マニュアルを手に取ってペラリと捲る。
ノートの中身に興味がないのか、それともそこまで理解した時点で何か思うところでもあったのか、瑞貴が一体何を思ったのか十夜にはわからない。
けれど、少なくとも良い感情を抱いていないことだけは明白だった。
やる気がなさそうに見えるのも、興味がなさそうに見えるのも、いつものことではあるのだが、それでもこんな風に悪意のある言葉を口にすることはない。
あまり感情が読めない方ではあるからこそ、余計に快く思っていないのは明らかだ。
「…人間て、懲りないよね」
緊急対策マニュアルに目を通していた瑞貴が、完全に呆れきった様子でため息とともにそう吐き捨てた。
十夜が知る限り、こんな風に冷たい態度を見せるような人物ではなかったはずなのだが、緊急対策マニュアルとやらにはそこまで馬鹿げた内容でも書いてあるのだろうか。
友人の態度にギョッとして思わず視線を向けた十夜の視線が、緊急対策マニュアルから顔を上げた瑞貴のそれとぶつかった。
視線で、一体何が書いてあるのかと問いかければ、先ほどよりも明確な、嘲りの表情が浮かぶ。
「10年前に失敗したくせに、懲りずにまた同じ研究をやって、また失敗したみたいだよ?」
ペラリと十夜の眼前に緊急対策マニュアルを突き付け、瑞貴は冷たい声でそう言った。
声の裏に、十夜が今までに感じたコトもない黒い感情が見え隠れしているように思えて、思わず目を瞬かせる。
余程酷い内容が緊急対策マニュアルとやらに書かれているのかと、十夜は突き付けられた冊子を受け取って、内容に目を通す。
「…後天的な遺伝子変容ウィルスに関して…。感染力は極めて低く、体液による接触感染のみであるが…?」
開いていたページを読み進める十夜の表情は、徐々に険しくなっていった。
書かれてあったのは、未知のウィルスに対する対処法。
ウィルスによる侵食が進行すれば、人体の遺伝子情報が書き換えられ、生物として変容するという記載に、おぞましさを感じた。
ステージ1からステージ5までに分類され、ステージ1で思考の混濁と飢餓感に襲われる。
ステージ2で自分の身体に違和感を覚え始める。
ステージ3で皮膚など表面的な部分が変質し始める。
ステージ3までならば、抗ウィルス薬さえあれば進行は抑えられるが、ステージ4の時点で意識の混濁、内臓器官の変容が進み、最後のステージ5では自我の喪失、下等種を進化させるという単一目的、統率者の指示にのみ従う傀儡化と書かれていた。
ステージ1の感染者が出た場合、即座に隔離し経過観察を開始、同時にアウトブレイクを避けるために他の地域から完全に遮断し、感染の可能性のある人間を全て封じ込めるような指示があり、それに失敗した場合には大規模なパンデミックが予想されるために絶対に失敗しないようにと念を押す文章が続く。
大多数のために少数を犠牲にすることを厭うのは寛容ではなく、この場合は倫理や正義、常識に囚われて行動出来ない方がむしろ悪であるような書き方がされている。
「…何だ…コレ…」
本日何度目になるのかもはや解らない疑問の言葉を口にし、十夜は緊急対策マニュアルを凝視した。
これでは、まるで、アレに酷似したモンスターが闊歩するバイオハザードの世界のマニュアルではないか。
「だから、悪魔の研究が失敗した時に、バケモノからどうやって弱い人間を護ればいいのかっていうマニュアルでしょ?」
何を解りきったことを聞くのかとでも言いたげに、瑞貴はそれだけ言い捨てるとソファから立ち上がってバルコニーへと向かっていった。
バルコニーへと続く窓を開け放ち、外へ出ていく。
ここが3階だと忘れて、十夜は思わず危険だと叫びそうになったが、寸でのところで思いとどまった。
瑞貴は、この場所が危険なのだと、まだ知らないのだからと自分に言い聞かせる。
本当に、ただ肝試しにきただけの場所で、たまたま変な部屋を見つけてしまった程度にしか、思っていないのだろう。
危険な存在であるだろうアレを見ていないから、危険などまるでないのかのように奔放に振舞えるのだろうと、十夜はソレが唯一の救いであるような心境で友人の後ろ姿を見守った。
程なくして、キッチンから祐一が顔を覗かせ、準備が出来たので並べるのを手伝って欲しいと頼まれた十夜は2つ返事でキッチンへと移動する。
キッチンには雅臣の姿がなく、どこへ行ったのかと尋ねれば、赤也と拓海を探しに行ったのだと説明された。
探しに行くと言っても、向かった場所は解っているので、すぐに3人連れだって戻ってきたのだが、赤也と拓海の表情は心なしか硬いように見えて、十夜は一体何があったのかと内心で首を捻る。
口に出して訊きたいのが本音ではあるが、瑞貴がいる場所でアレの話題など出せるはずもなく、表面的にはそれなりに和やかな昼食の光景となった。
隠し部屋であんな光景を見た後、よく食事なんか出来るなというのが、十夜の正直な感想ではあるのだが、何があったのかを理解していない瑞貴の手前、やはり隠し通すしかないと無理やり日常を装って頑張るしかないのだ。
それは他の友人たちも同様だったのか、普段よりもぎこちないのは否めないものの、何とか平穏な食卓風景となったのは、少しでも全員の救いとなったのかもしれない。
そして、食事が終わった後、適当な理由をでっち上げ、赤也と拓海、祐一と十夜の4人はダイニングルームから談話室に移動した。
「…わざわざ瑞貴を遠ざけたということは、何かあったのだな?」
談話室に入るなり、祐一が神妙な顔つきでそう口にする。
要するに、聞かせられない何かしらの事案が発生したと見てまず間違いないと思っているようだ。
「ああ。あったぜ、色々とな」
重く溜息を零すと、赤也があっさりと祐一の言葉を肯定する。
赤也の普段の明るい様子からは想像も出来ないような、翳のある表情に自然と空気が重くなった。
「何があった?」
とっくに誰が発狂してもおかしくないような状況なのだが、それでも務めて冷静であろうとしているらしい祐一が、本題を促すように重々しく問いかける。
「良い知らせと悪い知らせがあるんだが、どちらから聞きたい…?」
重苦しい空気を少しでも軽くしたいのか、拓海はそんな言い回しで軽い笑みを浮かべて見せた。
「…じゃあ、良い知らせから聞こう…」
少しでも重い空気から解放されたくて、十夜はセオリーとは逆の言葉を口にする。
普通は、こういう場合、悪い知らせから聞くものだと頭では理解しているのだが、目先の安堵が欲しくてついそう言ってしまったのだ。
「じゃあ良い知らせからだな。…昨日のアレは、殺せるらしいぞ」
十夜の心境を知ってか知らずか、拓海がふっと笑みを浮かべてそう告げる。
「殺せる…?」
まさか試したのかと祐一が眉根を寄せて拓海にそう問い返した。
「オレらが殺ったんじゃねーよ…。2階との扉、封鎖してたのを開けてみたんだ。音もしなかったしさ。そしたら、ドアの前にアレの死体が転がってた」
問いに答えたのは拓海ではなく、赤也の方だ。
相変わらずどこか翳のある表情のまま、それでも努めて明るい口調でそう説明する。
「首と胴が完全に離れた状態で転がっていてな。その状態だと、ピクリとも動かなかったし、血も完全に固まっていた」
拓海は、補足説明とばかりにそう付け加えた。
あくまで淡々とした口調で、感情を覗かせない業務的な喋り方は、なるべく平静を保とうという心の現れなのかもしれない。
実際に、見た目だけで生理的な恐怖と嫌悪を感じるアレを前に、生死を確かめるというのはかなり精神力を必要とするだろうし、アレが恐らく元々は人間だという理解の上ならば、尚更生死を確認するという作業は、要するに人の生死を確認する行為そのもので、常人が平常心で行うなど出来ることじゃないだろう。
しかも、首と胴が離れてという状況を、目の当たりにしたのだ。
それこそ普通なら恐慌状態に陥ったり、深刻な鬱状態になったり、精神を病んでもおかしくない。
思わずその光景を少しだけ想像してしまった十夜は、表情を引き攣らせ声にならない声で呻いた。
「…安心しろよ、死体はちゃんと視界に入らない場所にやっておいたからさ」
そんな十夜に、どこか疲れた様子で赤也が苦笑を浮かべる。
この洋館から脱出するには、その場所を通らなければいけないと解っているからなのか、赤也と拓海は凄惨な現場を友人たちが見なくて済むように早々に処理してくれたらしい。
「…2人がやったのではないなら、一体それはどういう状況だ…?」
この館には、自分たちしかいないはずなのではないかと祐一は不可解だと言わんばかりに首を捻る。
そもそも、仮に他の誰かや何かがいたとして、何をどうしたのだろうという、至って冷静な疑問だ。
「凶器はすぐ傍に落ちてた。たぶん儀礼用とか飾り用の、アレはレイピアだと思うぞ」
コレがもし殺人事件ならば、なんてお粗末な展開だとでも言いたげに、赤也が肩を竦めて見せる。
死体のすぐ傍に凶器を置き去りにするなど、犯人を見つけてくれと言うようなものだ。
しかし、それはあくまでもただの殺人事件の場合である。
「何でそんなものが落ちているんだ…。いや、それよりも俺たちの他に誰かが潜んでいるということか?それに下手人は、ゾンビの弱点を知っていたということなのか?」
祐一はますます訳が分からないといった様子で訝しげな表情を浮かべた。
「オレたちもそう思って、2階を回ったんだよ、念のため、武器持ってさ」
赤也は祐一の言葉が予想通りだったのか、あっさりとその後を暴露する。
アレの死体を片付けるのと同様に、周辺の確認もしたということらしい。
「結果、悪い知らせに繋がるわけだ…。アレはあの1体だけではなかった。2階にはいなかったが、階下から声が聴こえてきた。あと、2階には誰も潜んでいなかった」
続きを引き取り、拓海がサラリと悪い知らせまでも付け加える。
あまりにもあっさりと言われたせいでうっかり危機感を置き去りにしてしまいそうになるが、確かに拓海は、アレが1体だけではなかったと言った。
「…おい、ソレじゃ…」
アレを、いやアレらをどうにかして駆除しなければ、館から出られないのではないかと十夜は思い至った結論に真っ青になる。
アレが1体だけではない。
本当に、ゲームのバイオハザードか何かではないかと、どこか逃避気味に考えた。
「頭を潰せば大丈夫だと解ったから、武器さえあれば1、2匹程度ならどうにかなると思うんだけどな」
この際、アレを人間だったモノだと考えなければ、対処は出来ると拓海が重々しく口を開く。
その言葉は、問題はもっと別のところにあるとでも言いたげで、十夜は思わず首を傾げた。
「オレたちはさ、最初から言ってたろ?仮にお化けが出てきても対処してやるって。だから、ちゃんと守ってやるさ」
あえて明るく冗談じみた口調を選んだのか、赤也はそう言って自信ありげに笑って見せる。
確かに道中でも肝試し前のモキュメンタリーホラー制作時の会話でもそんな内容を口にしてはいたが、まさかソレが現実のモノになるなんて、誰も予想していなかったはずだ。
それでも、2人は友人たちを守るのだと、既に決めているらしい。
それが、ヒトだったナニカを殺すことだと、実際に死体を見た2人が理解をしていないハズがないのだが、それでも彼らは殺されるより殺すことを選んだようだ。
「問題は、囲まれた時に2人だけじゃ対処しきれない事だな。その場合は、最悪強行突破しかない。もちろん、ケガ覚悟でな」
最悪のケースとして、拓海はそう言って憂いを帯びた笑みを見せた。
つまり、犠牲を出すことを覚悟で、無理やりに逃がすと言っているのだ。
その場合の犠牲とはつまり、そんな提案をしている赤也か拓海のどちらかのことを指している。
彼らは既にそうすることを決意しているのか、暗い中にも揺るがない光を宿した目をしていた。
「そんなの、あっていいわけがないだろうがっ!」
十夜は友人たちの暗い決意に、思わず大きな声を上げる。
誰かを犠牲にして生き残っていいはずがない。
それが大切な相手なら、尚更だ。
「だったら、全員一緒に仲良く殺されるか?それかバケモノになるか?」
静かな声音で、赤也がそう言って真っ直ぐに十夜を見る。
「それもダメに決まってるっ!俺たちは、全員で、無事にここから帰らないといけないんだっ!」
これでは駄々を捏ねている子供と変わらないと思いながらも、十夜は大きな声でそう叫んでいた。
見捨てるなんて、絶対に駄目だ。
逃げろと言われて素直に逃げれば、確かに助かるのだろう。
でも、ソレは、大事な相手を犠牲にして生き延びる行為だ。
「俺は、もう、目の前で誰かが…。…アレ…?」
脳裏を過るのは、逃げてと叫ぶ幼い誰かの声。
そんな光景は知らないはずなのに、十夜の内側に訴える声があった。
逃げちゃ駄目だ、助けなきゃ駄目だ。
そう訴えるのは、紛れもない自分の声。
けれど、身体は言うことを聞かず、1歩足が後ろに下がる。
良かったと、安心したような声が聴こえたような気がした。
こんな光景は知らない。
知らないと思いながらも、鮮明に浮かぶ、後悔と恐怖の感情。
「…おい、十夜?」
いきなり黙り込んだ十夜に訝しむような祐一の声がかけられた。
「…悪い…。何でもない」
自分でも理解出来ない混乱に、十夜はさっきまでの勢いを完全に削がれた様子でそれだけを口にする。
今、脳裏を過ったのは一体何なのだろうか。
「まぁ…そんな最悪のケースは、たぶん起こらないからさ…。ソレよりも問題は、瑞貴にアレを見せないままどうやって外へ出るかなんだよなぁ…」
赤也は安心させるような笑みを浮かべた後、そう言って苦笑して見せる。
アレが1体だけではなく、外に出るまでに遭遇する可能性があるという状況で、瑞貴だけに見せないまま進むというのは至難だろう。
何が起こっているのかを理解しているのならば、安全を確保するまで死角で待機とでも言えるかもしれないが、現状ではそれすらままならない。
「…その件は、俺に一応案があるんだけど、一任して貰っていいかな」
少しだけ考えるような素振りを見せた後、拓海が小さく挙手をしてそう言った。
一体何を思いついたのかは不明だが、どうやら見せないまま進む手段を思いついたらしい。
「あ、あぁ。案があるなら、任せるけどさ。…なぁ、ココから全員無事に帰れたらさ、改めてみんなでバーベキュー大会とか、しようぜ」
話題を変えるように、赤也が明るい口調でそう言って笑って見せる。
全員無事にという言葉は、まるで願掛けのように、どこか切ない響きに聞こえた。
「そういう事を口にすると、実現しなくなるのではないか?俗にフラグを立てるというのだろう」
小さく笑うと、祐一はそう言って微かにため息を零す。
実現すればいいがな、と小さく呟かれた言葉に、十夜はぐっと下唇を噛んだ。
こういう時、十夜はやはり何の役にも立たない自分が嫌いだった。
「十夜、頼みがあるんだが、ちょっといいか?」
不意に、拓海がそう言って十夜を手招く。
「俺に…?」
何か出来る事でもあるのだろうかと、十夜は自分が名指しされたことに疑問を感じながら拓海に近づいた。
「ああ。もし、ヤバくなったら、十夜が瑞貴だけは連れて逃げてやってくれ。何があってもソレだけは約束してくれないか」
重々しく告げられたのは、そんな言葉だ。
最悪のケースは起こらないと赤也が言った後なのに、拓海はそれでも最悪のケースを想定しているらしい。
友人を案じる言葉は、同時に護衛役の責任感から来ているのか、拓海が十夜に託したのは自身の護衛対象のことだった。
「何で俺なんだ…?貴様らや雅臣の方が、戦闘力は上だろう」
よりにもよって自分にそんな重要なことをと思いながら、十夜は首を捻る。
はっきり言って自分が1番足手まといな自覚があるので、そんな自分に任されるということに疑問しか沸かなかった。
体力面だけで考えれば、完全にデスクワーク派の祐一よりも上かもしれないが、突発的な状況下での冷静さを加味すれば当然総合力の軍配は祐一に上がるはずだ。
「最優先事項が瑞貴だけなのは、十夜だけだからだ。だから、1番適任なんだ」
何ともよくわからない理由で、拓海は十夜に護衛対象を任せたらしい。
妙に自信ありげな笑顔で、そう太鼓判を押された十夜は、ますます困惑するしか出来なかった。
それに、条件がソレならば、自分よりも雅臣の方が適任ではないのかと、思わず考えてしまう。
更に何かを言い募ろうとした時、談話室のドアがノックされた。
ノックされるということは、当然ドアの前にいるのは正常な思考能力のある人間のはずだ。
そう解っていても、アレが1体だけではないと聞かされた十夜は一瞬だけ身を固くした。
談話室の鍵はかかっていないので、すぐにガチャリとドアが開く。
姿を見せたのは、この場所を危険だと欠片も認識していない瑞貴だ。
「探し物は見つかった?」
ふわりと笑みを浮かべ、瑞貴がドアの向こうから部屋を覗きこんでくる。
「それはまだだ。なぁ、俺はお前に用があるんだけど、ちょっといいか?」
さっそく本題に入るつもりなのか、瑞貴の登場を好都合だと言わんばかりに拓海が笑顔を見せた。
「用…?いいけど、何?」
不思議そうな表情を浮かべ、瑞貴は拓海の方へと近づいていく。
「ここじゃ探し物をする奴らの邪魔になるから、隣のベッドルームでいいか?」
あくまで探し物という談話室に引き上げるための口実をそのまま継続させ、拓海は瑞貴を手招いた。
手招かれるまま、瑞貴は特に疑問を覚えることもなく、素直に拓海の後をついてく。
2人が隣のベッドルームに消えるなり、赤也と祐一がどちらからともなく顔を見合わせた。
「…別にさ、オレら、話聞いてても良くね?話を聞かせちゃマズイのは、瑞貴だろ」
拓海の行動の意味が解らないとでも言いたげに、赤也がポツリと呟く。
「何かしら意味があるんじゃないのか?まぁ、俺は今の内に雅臣に今までの流れを説明してこよう」
軽く苦笑を浮かべると、祐一はそう言って立ち上がる。
「ボクなら、ここにいますよ~?」
そこへ、ちょうどよくというより、一体いつからそこに居たのか、雅臣がドアのこちら側でへらりと笑って立っていた。
「…おま、いつの間に…」
気配を感じさせなかったのか、赤也が驚きの声をあげる。
「ボクが瑞貴さんだけで行動させるわけないじゃないですか~何があるか解らないのに~」
当然一緒に来てましたよ、と雅臣は笑顔で応えた。
その明るさに、一気に空気が軽くなる。
「まぁいい。とりあえず説明をしておこう」
祐一はそう言うと、雅臣に近づき、要点だけをまとめて話す。
ここから脱出するためには、アレと遭遇する可能性があることと、戦う可能性があることを説明された雅臣は、解っているのか解っていないのか危機感のない表情で頷いているだけだ。
その様子に一抹の不安と、妙な安心感を覚えながら、十夜は成り行きに身を任せる。
先程、昼食前に読んでいた緊急対策マニュアルによると、一定期間経過してこの施設が外部と連絡が取れない状態になれば、人知れず完全に封鎖されると書かれてあったので、もしかすると時間の猶予はないかもしれない。
それは、談話室へ向かう廊下で既に十夜が友人たちに話した内容だ。
その結果、早急にこの場を離脱しようという流れになったのだが、果たして上手くいくのだろうか。
「それじゃ、準備したら行こうか」
ベッドルームから戻ってくるなり、拓海がそう言って友人たちを見渡した。
元より最低限の準備だけをして、早々に立ち去る手筈だ。
拓海が一体何と言って瑞貴を丸め込んだのかは知らないが、本当に見せずに進むことが可能なのだろうかと十夜は首を傾げる。
「わかりました~じゃあ、サバイバルの準備ですね~」
何をどう履き違えたらそうなるのか、雅臣の底抜けに明るい声が談話室に響く。
「は!?」
思わず、どうしてそうなったのかと間抜けな声を上げたのは十夜だ。
「え?だって、今から、お化け退治をしながら外に出るんですよね~?肝試しの延長なら、そうじゃないですか?」
別におかしなことじゃないだろうとでも言う様子で、雅臣が友人たちに笑顔を見せる。
ある意味では間違っていないのだが、そんなに明るく言えるような内容ではないはずなので、十夜はもしや雅臣は危機的状況を理解出来ていないのではないかと疑いたくなっていた。
「…外に出るなら、戻ってくるのに時間かかりそうだし、先に薬飲まなきゃ…」
雅臣の言葉で、瑞貴は単なる散策と思ったのだろう、そう言って談話室から隣のベッドルームへと姿を消す。
そこで十夜は、今更ながらに瑞貴が朝からずっと鞄を持ち歩いていなかったのだということに気付いた。
普段からちゃんと薬は持ち歩くようにと友人たちから散々言い含められているのに、いい度胸だとどこか呆れた気持ちで戻ってくるのを待つ。
普段よりも持ち歩く数が多いせいで鞄が大きいからなのか、邪魔だと思って置いて行ったのだろうが、持ち歩いていなければ意味がないのではないかと、無事にこの場所から脱出出来たら説教してやろうと願掛けのように決意する。
まるで瑞貴の行動が合図になったかのように、それぞれが脱出のための準備を始めた。
雅臣は瑞貴が消えたベッドルームへと何かを取りに向かい、赤也と拓海は持ち込んだキャンプ道具の中から武器や防具に使えそうな物を探し出す。
その間に、祐一は十夜が読んでいた例の緊急対策マニュアルを取ってきて隅々まで読み始める。
既にマニュアルに目を通し、出来る事のなくなった十夜はキャンプ道具と一緒に部屋に持ち込まれた最低限の応急手当の道具を引っ張り出した。
その中には、虫よけと思われるスプレーやら消毒用の純度の高いアルコールやらと、包帯などが入っている。
何の役に立つか未知数だが、何もないよりはいいかもしれないと十夜はそれを手に取った。
15分後、本当にサバイバルに赴くような雰囲気で、彼らは3階と2階を分断する階段の前に立つ。
「…それで、一体この目隠しに何の意味があるの…?」
拓海に何をどう言い含められたのか、瑞貴は完全に視界を覆うように両目を塞がれていた。
別にただ布を巻いただけなので、外そうと思えば簡単に外せるのだろうが、外してはいけないと言い含められたらしい。
「簡単な心理実験だ。ブラインド・ウォークという実験でな。見えない状況で、手を引いてくれる人間との信頼関係の推移を調べる実験だ。ちゃんと怪我をしないように案内してやるから、協力してくれ」
どういう流れでそんな実験をすることになったのか甚だ疑問だが、拓海はそういう名目で瑞貴を言い含めたらしく、真面目な口調でそう言っている。
「ソレ、屋外でやる実験でしょ?知らない場所を散策する間に、最初と最後で手を引く側と引かれる側の相手に向ける感情の変化を調べるやつだよね?」
何で今こんな場所でやる必要があるのかと、瑞貴は困惑の声を上げた。
しかも、ここは屋内だと小さく付け加える。
「まぁまぁ~。ボクがちゃんと安全にガイドしますから~。それに、十夜さんも一緒にガイドしてくれますからね、大丈夫ですよ~」
宥めるような口調で、雅臣がそう言って瑞貴の手を取った。
拓海がねつ造した設定によれば、本来ナビゲーター役が1人でやる実験を、あえてナビゲーター役を2人にしたらどうなるかというのを試すというものらしい。
拓海から護衛対象を任された十夜と、最優先事項はあくまで瑞貴だという様子の雅臣がナビゲーター役になるのは、当然の流れだった。
「…いいけどね、別に…。最初から信頼関係が構築されてたら、この実験って意味ないんじゃないの…?」
友人の思い付きに、何がしたいんだろうとでも言いたげな様子で瑞貴はさっそく実験の不備を指摘している。
普段通りにこれくらい軽口を叩けるのなら、安心かもしれないと、十夜は内心少しだけほっとしていた。
それに、この状況なら、少しでも守る側でいられると、自己満足だとわかっていながら十夜は小さな充足感を得ることが出来る。
まずは無事に2階を抜けることだと目配せをしながら、2階と3階を隔てていたドアを開けて、階段を降りた。
あくまで実験に協力してもらうという名目で視界を奪われている瑞貴の手を引きながら、怪我をさせないように細心の注意を払う。
けれど、元々の身体能力の賜物なのだろう、たとえ視界0であってもバランスを崩すようなことはなく、あまり危なげには見えない。
降りた先には、確かにアレが転がっていただろう痕跡が残っている。
ふと、十夜の耳に、アレらしき呻き声が届いた。
微かな声は、恐らく廊下の向こう、1階と2階を結ぶ階段の方だ。
「…チッ、アレは避けられないな…」
小さな舌打ちと共に、赤也は用意してきた武器を構え直す。
どこから調達してきたのか、赤也が手にしているのは布にくるまれた金属バットよりも短めの何かだ。
確かに思い切り振れば、アレの頭くらい簡単に潰せるだろうが、布に包む必要があるものなのかは、不明だった。
「俺がやる、少し待ってろ」
そう言って、赤也より先に駆けだしたのは拓海だ。
彼が持っているのは、これまたさらにどこから調達したのか気になる、装飾過多な刀だった。
アレの死体と共に転がっていたのがレイピアだと赤也が言っていたが、西洋の細剣に、旧日本軍を思わせる華美な刀までが置いてあるのだから、この洋館の持ち主はなかなかどうしていい趣味をしている。
拓海が駆けだすのとほぼ同時に、廊下の突き当りの角から姿を見せたのは、昨日のアレと限りなく似た外見のバケモノだ。
一気に加速すると、拓海は手にしていた刀を抜いて一閃させる。
祖父が居合いを教えているというだけあって、見事な早業で拓海はソレの首を胴から切り離した。
「…やるなぁ…」
感心したような声で、赤也は親友の技量を賞賛する。
素手での戦闘は赤也に軍配が上がるが、獲物を持たせたなら軍配は拓海に上がるというのが、正確な2人の力関係だ。
既に赤也にも拓海にも、アレの命を絶つことへの躊躇いはない。
それどころか、無造作に転がった頭を蹴り飛ばしてしまえるくらいには、アレを尊厳あるイキモノだと認識していないようだ。
同じようにして、1体だけの遭遇戦は電光石火の速さで拓海がアレを切り伏せることで苦も無く切り抜ける。
「…ねぇ、一体何が起こってるの…?」
唯一何が起こっているのかを見る事が出来ない瑞貴は、音だけで判断するしかないらしく、心底不思議そうな声で傍らのナビゲーター役に問いかけたが、十夜も雅臣も何でもないと曖昧に言葉を濁すだけだった。
そして、1階に辿り着く。
2階と比べて、廊下の幅は広く、そして入り組んでいるせいで、いつアレが飛び出してくるかわからない状態に、自然と歩く速度が遅くなる。
夜の記憶を頼りに、鍵の開いている裏口を目指そうと歩き始めるが、先導していた赤也と拓海が不意にピタリと足を止めた。
「…1体や2体じゃないな…」
微かに聞こえる呻き声と、摺るような音を頼りに、数を把握しようとしていた赤也はどうする?と問いかけるような視線を傍らの拓海に向ける。
「さて…どうしようか…」
これは想定外だとでも言うように、拓海は肩を竦めて見せた。
口調は軽いが、声には焦りが滲んでいる。
「…オレがどうにかするからさ、オマエら、全員裏口目指して走れ」
逡巡した後、赤也がポツリとそう言った。
迷っている間にもどんどん音は近づいてくる。
立ち止まっている時間が、それだけ自分たちの身を危険に晒すということくらい、解っていた。
「それならば、俺が残った方が確実だろう。俺の武器の方が効率がいいからな」
だからその役割は、俺がやるべきだと拓海は1歩前に出た赤也を引き留める。
その問答をしている間にも、音は少しずつ近づいてくるように思えた。
「…ダメだ」
ポツリと、呟くように制したのは十夜だ。
十夜の脳裏には、いつか自分が置いて逃げた幼い姿が浮かぶ。
「置いて逃げるなんて、ダメに決まってるだろ!」
大きく頭を振って、十夜は叫んだ。
覚えていないいつかの光景が重なる。
「バカっ!そんな綺麗事言ってる場合かよ!いいから、行けよ!」
全員で死ぬか、誰かを犠牲にして生きるか、選択肢はそれだけだと赤也が叫び返す。
いくらアレが愚鈍でも、数が多ければ対処しきれない。
それでも、時間さえ稼げれば、誰かは生き残れる。
「十夜、さっき頼んだだろう?さっさと連れて行け」
十夜を振り返ることなく、拓海は静かな声でそう言った。
最悪の場合は、大事な者だけを連れて逃げろ。
確かに十夜は拓海から、他ならぬ自身の一番大事な存在を託されている。
けれど、だからと言って他の大事な者を切り捨てることなど、今の十夜にはもう出来なかった。
「嫌だっ!」
だから、精一杯の気持ちを込めて叫ぶ。
全員一緒でなければ嫌なのだと。
「オマエの我儘で大事な相手を危険に晒すのかよ!さっさと行けって言ってんだろ」
気持ちが伝わっていないわけではないのだろう、言い返す赤也の声も必死だった。
視線は、音のする方に向けたまま、それでも強い口調で、未練を断ち切るようにっ叫び返す。
「嫌だ!ここで置いて行ったら、一生後悔するんだ!他ならない、俺の大事なヤツが!」
何も知らされないまま、気付いたら友人を置き去りに逃がされたのだと知ったら、瑞貴はどう思うだろうかと十夜は自分の想いを叫ぶ。
きっと、自分と同じように、罪悪感と後悔に苛まれ続ける。
「残す方も、残される方も、どっちも辛いんだぞっ!だから、全員で一緒に行かないとダメなんだっ!」
こんなのはまるっきり子供の主張だと、叫びながら十夜だって理解していた。
それでも、この想いを曲げるわけにはいかない。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!?」
確かに十夜の言葉は、誰もが抱く理想だ。
けれど、その理想は、人を殺す。
だから、赤也は断ち切るように言い返した。
大事な相手が、1人でも多く無事でいられるように。
視界の中に、蠢くアレが姿を現す。
距離は廊下の端と端とはいえ、いくらアレの移動速度が鈍いとはいえ、それでもこのままここで話していては近づかれる一方だ。
不気味でグロテスクでシュールで、そして生々しい。
「…自分の目の前で、たとえ仕方のない状況だったとしても、大事な誰かを失ったら、その先、笑って生きられるわけがないだろう…?大事な誰かを犠牲にしてまで生きたいって、一体誰が思えるんだよ。そりゃ、残す方は、自分を犠牲にしてでも生きて欲しいって思うものなんだろうけどさ、違うだろ」
十夜は、ポツリと、独り言のようでありながら言い聞かせるようにそう言った。
「残された方はさ、自分が生きてていいのかって、ずっと自分で自分を責めながら、それでも笑って生きなきゃいけなくなるんだぞ、きっと」
だから、全員で一緒に行かなければいけないんだと、十夜は重ねて訴える。
ソレがただの理想で、夢物語でしかないと解ってはいても、どうしても曲げてはいけないことだと思った。
「言ってるコトは解るよ!でも、時間がないんだ!聞き分けてくれ!」
痛みを堪えるような悲痛な声で、赤也が叫んだ。
もう、アレらは数メートル先まで近づいてきている。
これ以上この場所に留まっていたら、最悪全員の身が危うい。
「いや、手遅れかもしれんぞ…」
祐一の、静かな声と共に、反対側からも微かな呻き声が聴こえてくる。
いつの間にか、一体どこから沸いたのか、既に通って来た廊下からも這うような、摺るような音がしていた。
ちょうど彼らのいる場所は、少し戻って走れば迂回することになるが裏口へ続いている。
最短距離で進んでいた結果、アレらと遭遇しただけで、他に道がないワケではない。
戻らずに少し進んで曲がれば、開かないはずの玄関へと続いていた。
出口は近いはずなのに、ここで絶体絶命の危機を迎えることになるのは、なんとも皮肉だ。
「…生きたい?死にたい…?そういう問答…?」
友人たちが繰り広げる会話に、1人ついていけていないのは、当然瑞貴だった。
彼らの会話の意図が掴めないのは当然なのだろうが、場違いなほど平和に不思議そうな声が彼らを少しだけ冷静にする。
「…俺は、全員一緒に生きられないなら、死にたいを選ぶ」
その小さな問に、十夜は自分に言い聞かせるようにそう応えた。
声は決して大きくないが、決意は大きい。
「ふざけんなよ!誰かは生きなきゃなんねーんだよ!」
言い返す赤也の方も、悲痛なまでにその決意は固かった。
「…そう…」
一体何を納得したのか、瑞貴はポツリとそう呟くと、繋いだままだった十夜の手を放す。
いきなりの出来事に思わず十夜は瑞貴を振り返った。
視線の先で、瑞貴の取った行動に、目を瞠る。
実験だと言い含められ、絶対に外さないように言われた視界を覆っていた布を勢いよく取り払うと、瑞貴は一瞬だけ眩しそうに目を細めた。
その視界に、アレが映る。
十夜は、驚愕と恐怖に彩られた昨夜の様子を思い浮かべ、ぐっと拳を握って、再び大切な相手が傷つく様子に耐えようと身構えた。
けれど、瑞貴の表情は何も変わらない。
まるで視界にアレなど存在していないかのような、当たり前の光景しか見えていないかのように焦りも恐怖も微塵も浮かんでいなかった。
「…こっち。皆、走って」
だから、十夜が予測したような悲劇的な事態は訪れず、代わりに瑞貴は存外しっかりした声で短く言った後、十夜の手を取って行き止まりのハズの玄関の方へと向きを変える。
「おいっ!そっちは行き止まりだぞ!」
その様子に面食らいながらも、十夜は慌ててそう言った。
開かない玄関なんかに向かえば、行き止まりで全員無事には済まない。
「大丈夫、信じて」
瑞貴はそれだけ言うと、急かすように十夜の手を引いて走り出す。
信じてという言葉に、十夜は手を引かれるまま、行き止まりのはずの方へとついていった。
振り払おうと思えばいつでも振り払える程度の力で掴まれた手。
それでも、この相手に信じてと言われたら、十夜は素直に信じたくなった。
「行きましょう~」
突然の成り行きに、一瞬困惑の様子を見せた赤也と拓海、それから祐一に対して、雅臣が早くと急かす。
それだけで、彼らは顔を見合わせながらも、先に進んだ瑞貴と十夜の後を追う。
あの場所に留まっても、どうせ多くのアレに囲まれるだけだ。
それならばと一縷の望みをかけて、友人たちを追いかける。
「おいっ!玄関は開かないハズだぞ!」
十夜は、再び同じ内容を叫ぶ。
広いエントランスに出るなり、瑞貴は十夜の手を放して一目散に玄関の大きな扉へ向かっていった。
一体何を考えているのかと思いながら、十夜は瑞貴の行動を見守りながら後を追う。
手を放してすぐ、エントランスを一気に駆け抜ける速度には、残念ながらついていけない。
元より、生物としてのスペックが違うと思うほど、見た目に反して高すぎる身体能力を有している瑞貴に本気を出されたら、十夜では追いつくことなど出来ないのだ。
十夜のすぐ後ろから、他の友人たちも追いかけて来た。
背後を警戒しているためだろう、走る速度はそんなに早くない。
「おい、こんな場所で戦えってのか…?」
確かに広い分、思い切り動けるが、逆に四方八方から襲われる危険があると、赤也が焦りを時にませた声を上げた。
次の瞬間、ガチャリと大きな音がエントランスに響く。
「…開けたのか」
祐一の、どこか茫然とした声に十夜は追いかけてきた友人たちから、玄関に向かった瑞貴へと再び視線を戻す。
一体どうやったのかは不明だが、確かに正面玄関の大きな扉に隙間が開いていた。
内側から外開きに、重々しいドアが開いて行く。
扉の隙間から、外が見える。
「早く、出て…」
振り返って、急かすように言う瑞貴は、普段通りに見えた。
視界には、のろのろと追いかけてくるアレの姿が入っているはずなのに。
見えていないのか、認識していないのではないかと思う程、いつも通りだ。
まさか、本当に見えていないのだろうかと、十夜は少しだけ不安になる。
「オレが先に行く、安全とは限らないからなっ!」
走ったせいもあって既にアレらとだいぶ距離が開いたのを確認し、赤也が大きな声で宣言して一気に加速した。
そのまま、勢いに任せて外に飛び出す。
「問題ないようだな」
その後に続いて、拓海がドアの辺りから外を見渡し、そう言った。
その言葉に釣られるように、十夜と祐一は外へと踏み出す。
彼らが外に出るのを待っていた瑞貴と、殿を務めるつもりだったのか最後までドアを潜らなかった雅臣は申し合わせたかのように外に出ると、外からドアを閉めた。
次の瞬間、ガシャンという施錠の音が聴こえたので、どうやら自動で閉まる仕組みらしいとようやく理解が追い付く。
「皆さん、大丈夫ですか~?」
へらりとした笑顔を浮かべ、雅臣が安否を確認するように赤也、拓海、祐一、十夜と順に視線を向けた。
「あ、あぁ…大丈夫だ」
思わぬ機転に救われたというか、アレらの大軍から逃げおおせたものの、まだ実感の沸かない様子で赤也が反射的に頷いている。
「あとは、車に乗りさえすれば…」
学園へと帰るだけだと、祐一がほっと息をつく。
これで、肝試しは終了だと、安心したように呟いた。
アレらがどこから沸いたのかは分からないが外へ出てくるには、少なくとも窓ガラスの割られたあの部屋以外は、ドアからしか出られない仕組みなのだから、アレらの知能を考えると玄関のドアに挑み続けるか、もしくは廊下を戻って1階の広い談話室の窓から出てくるしかない。
これで、分断は終わった。
道具を扱えるような知能の無さそうなあの愚鈍なバケモノたちは、恐らく廊下を戻って迂回して外に出てくるなどという知能は存在していないだろう。
無事に外に出られた事に、何度もアレと対峙した赤也と拓海もほっとしたような、僅かに気の抜けた表情を浮かべていた。
悪夢は終わったのだと、十夜もほっと胸を撫でおろす。
これで、全部終わりなのだと思うと、急に力が抜けた。
「…安心するのは、早いよ…」
そんな周囲の様子に、瑞貴がサラリと言って視線を鬱蒼と木が覆い茂る森へと向ける。
その表情は【コンクエスト】で敵を見据える【杜若】に通じる、冷たいものに近い。
視線の先で、ガサリと音を立て、木々の隙間からナニカが這い出てきた。
「チッ…やっぱりこうなるワケかっ!」
洋館の中にいた数よりは圧倒的に少ないとはいえ、一方向からではなく四方から現れるソレを睨み、赤也が吐き捨てる。
瞬時に臨戦態勢へと切り替わるのはさすがだが、僅かながら赤也の声には苛立ちが滲んでいた。
車は、視界に存在している。
それなのに、まだ終わりじゃない。
武器として持ってきていた小さ目のバットのような物を包む布を取り払えば、赤也の手の中には装飾品としても見かけるタイプの旧式の銃が収まっていた。
扱い方さえ知っていて、狙いを外すことがなければ、確かに有効な武器だろう。
「あの~、たぶん、アレ、音に反応すると思うんですよ~、目は見えて無さそうです~」
慌てたように、雅臣が迫りくる脅威を指してそう言った。
確かに目が見えているのなら、あんな場所から現れないだろうというくらい、全身に小さな枝が刺さっていたり、あちこちに裂傷が出来ている。
「んなコト言ったってどうしろってんだよ!?」
今更特性を聞かされたところで、対処のしようなどあるものかと、赤也は思い切り叫ぶ。
片っ端から片付けていくしかないと腹をくくったのか、武器を構える。
「…こうするんだよ」
代わりに、瑞貴はそう言って肩から掛けた鞄の中から何かを取り出す。
取り出されたものは、割とどこでも見かける防犯用のブザーだった。
瑞貴が音を鳴らすための紐を引くと、ブザーはけたたましい音を立てて鳴り響く。
確かに音に反応するのか、迫りくる脅威たちは一斉に音の方、つまり瑞貴の方へと向きを変えた。
「って、おい!何やってんだよ、バカっ」
自分の方に呼び寄せるヤツがあるかと、大声で怒鳴る赤也に瑞貴はチラリと視線を向けると、手に持っていたブザーを離れた場所へ投げ捨てる。
引き寄せられるように、愚鈍な動きのままアレらは音の方を目指し、歩き出す。
「…恐ろしいほど冷静だが、逆に冷静すぎて恐ろしいな…」
音に反応すると実証されたからなのか、祐一が小さな声でそう呟いた。
音に反応するから、音の出るものを用意して、更にはそれ目掛けて近づいてくることに動じずに投げ捨てるという行動は、簡単に思えて全く簡単ではない。
少なくともこんな極限の心理状態で、淡々と行えるようなものではないはずだ。
それでも普段と変わらない様子でやってのける友人に対し、祐一がそういう感想を抱くのは仕方のないことだろう。
その言葉に、十夜は改めて瑞貴に視線を向けた。
普段と変わらない、落ち着き払った払った様子は、当たり前の光景のように見えて、どこか違和感がある。
その違和感の正体が解らないまま、十夜はただ大切な友人を見つめていた。
「…このまま放っておいても、すぐに追いかけてくるんだろ?だったら、倒すしかないよな」
こういうバケモノのセオリーを勉強した後だからなのか、拓海は諦めたような口調でそう言うと、しっかりと武器を構える。
大音量を放つブザーが永遠に鳴っているわけではない。
一か所に集まっている今が、纏めて始末する好機だということだ。
それが人を殺すことなのだという感覚は、既に見ているだけの十夜ですら麻痺している。
恐らく音が止んだ瞬間、再び向かってくると身構えながら、赤也と拓海は目配せでタイミングを計るようにジリジリと憐れなバケモノたちに近づいた。
「…近づかないで」
それを静かな声で制したのは、瑞貴だ。
瑞貴は少しだけ考え込むような仕草を見せた後、おもむろに十夜に近づいたかと思えば、十夜の持つ結局最後まで何の役にも立たなさそうな応急処置のセットの中から迷いなく消毒用のアルコールを取り出した。
何をする気なのかと友人たちが見守る中、瑞貴は迷いなくその中身をアレらに向かって放り投げる。
綺麗な弧を描いて飛んでいくアルコールは、バシャリと傷だらけで憐れな愚鈍なバケモノへと降り注いだ。
「たくさん怪我もしてるみたいだしね…」
まるで単なる消毒のための行為だとでも言いたげな、少しだけ冗談めかした口調で言うと、瑞貴は小さな笑みを浮かべる。
一体、瑞貴にはアレらが何に見えているのだろうかと、十夜は茫然とその行動を見守っていた。
怪我などというレベルではないし、そもそも赤黒い液体をまき散らしながら進むアレを直視することなど、瑞貴に出来るはずがないのに。
自分たちが見ているアレと瑞貴が見ているアレは、本当に同じ存在なのだろうかと、あり得ない疑問を抱くほど、瑞貴の行動は十夜の理解の範疇を超えている。
さらに、瑞貴は手元で何かを弄ると、今度はバケモノたちの足元目掛けてそっと放り投げた。
キラリと光を反射する何かが地面に転がった瞬間、地面が勢いよく燃え上がる。
どこから持ち出してきたのか、瑞貴が投げたものがオイル式のライターだと気付いたは、当然炎が上がってからだ。
「な…」
目の前に広がる光景に、十夜は目を丸くして、絶句した。
燃え上がったのは何も地面だけではなく、アルコールを浴びせられたバケモノたちまでもが勢いよく一斉に炎に包まれていく。
パチパチと爆ぜる音、焼け焦げる肉の生々しい臭い、炎に包まれながら蠢く、ナニカ。
その全てが、恐ろしい光景だった。
表面が焼けたせいで、炎に包まれているのは、どう見てもニンゲンにしか見えない。
微かな呻き声に苦悶の色はないが、それでも燃えているのは、ヒトだった。
炎に包まれながら、水を求めるではなく、のたうち回るでもなく、憐れなバケモノは未だに音を発し続ける防犯ブザーに向かっていく。
全身を劫火に焼き尽くされながらも、ソレらは最期まで音の鳴る場所だけを求め続けていた。
まるでそこに救済があるかのように。
その光景は、さながら地獄絵図そのもので、思わず目を背ける。
勢いよく燃えるバケモノたちは、地獄の業火に焼かれる罪人のように見えて、燃えて崩れていく様子は、まるでその魂が許されて天に召し上げられるようにバラバラと内側から崩壊していくように崩れ去って行った。
完全に燃え尽きる前に、バケモノだったモノたちは、ただの黒い残骸ばかりになってしまう。
驚くくらいに、バケモノたちはよく燃えた。
「これで安全ですね~」
炎に包まれ土に還っていくバケモノたちを見て、雅臣が安心したような明るい声をあげる。
燃えているのに苦しむ様子すら見せないアレらは、もはや完全に生者の括りからは外れたイキモノだ。
それでも、あんな光景を目にして、どうしてそんなに明るい声で無事を喜べるのかと、十夜は戸惑いながらゆっくりと雅臣に視線を向ける。
雅臣は、たくさんのヒトだったモノが土に還っていくことを、むしろ喜ばしいことだとでも言うように穏やかな表情をしていた。
まるで、今の光景こそが、正しいとでも言うかのように。
「…全員無事で、良かったね」
今の出来事に何の感慨も持っていないのか、瑞貴は仄かな笑みを浮かべてそう言った。
普段と何も変わらない、柔らかな微笑み。
ふわりと、蕾が綻ぶような穏やかな微笑みは、まるで慈悲深い天使を思い起こさせる。
その様子に、十夜は言いようのない違和感を覚えていた。
見慣れた姿なのに、何かがオカシイ。
「…オマエ…誰だ…」
十夜の代わりに、誰何を発したのは赤也だった。
見知った友人を警戒するように、睨むような視線を瑞貴に向けている。
手にはしっかりと武器を持ったままだ。
「…誰って…見ての通りだけど。瑞貴だよ?知ってるでしょ?」
問われた方は、意外そうに目を丸くした後、ぱちりと目を瞬かせる。
その声も、仕草も、表情も、すべてよく見知った友人と何ら変わりはない。
それでも、赤也は警戒を止めなかった。
十夜の中でも、理由の解らない違和感が膨れ上がっていく。
そうだ。
今、話しているのは、誰なんだろう。
「…いや、知らない。オマエは、誰だ…」
再び、赤也は誰何を発した。
普段とは違う、硬い声音。
親しみを込めて友人に向ける声ではなく、得体のしれない何かに向ける声だ。
「だから、瑞貴だってば…。他の誰に見えるの…?」
質問の意図が解らないとでも言うように、瑞貴は困惑した表情を浮かべて首を傾げる。
ずっと一緒に居たはずなのに、一体何を言い出すのかとでも言いたげだ。
「…オマエは、オレのよく知る瑞貴じゃない。ふざけんなよ?」
硬い声音で、赤也は瑞貴を見据えたまま静かにそう言った。
「…どういう意味?」
普段と全く変わらない、赤也に対してよく見せている困惑の表情で、瑞貴は訳が分からないとでも言いたげにさらに深く首を傾げて見せる。
「瑞貴が、アレを見て平気なワケがないだろ?血塗れで、燃えてるんだぞ?1番苦手だろ?」
何で平気なんだと、赤也は思い切り睨み付けた。
無言で、答えてみろと脅すような威圧を向ける。
血だけでなく赤い液体ですら忌避する程なのだと、友人たちは当然知っていた。
だから、あのバケモノを見て、正気でいられるはずがないのだ。
蝋燭に揺らめく程度の火ならばなんとか平静を保つことは出来ても、燃え盛るバケモノなど見られるはずがない上に、そもそもライターで火を点けるなどという行為が、出来るハズがないということも。
少し考えれば、解るはずだった。
ならば、平然とそれらを克服して見せた目の前の友人の姿をしているのは、一体何者なのだろうか。
「……」
瑞貴は、何も言わずに傾げていた首を元に戻して黙っていた。
相変わらず困惑の表情を浮かべてはいるが、何も言わないからこそ、その表情がとても作り物めいて見える。
「もっと言えば、オマエ、絶対、あの隠し部屋でも、あの床を見てたよな?…あの時、気付かなかったけどさ…絶対に視界に入ってるハズなんだよ。なぁ、オマエ、一体、誰だ…?」
赤也の問いに、十夜はようやく違和感の正体に気付く。
あまりにも、普段通りすぎたということが、違和感の正体だった。
見ているハズのモノを見ていない、理解しているハズのモノを理解していない。
だから、恐怖もなく、普段と変わらない様子でいられた。
そんなハズはない。
十夜の何倍もの理解力を持つ相手が、本当に状況を理解していないなんて、あり得るハズがないのだ。
ただ、みんなが遠ざけるようにしていたから、それに合わせていただけ。
いつも、解っていて、解らないフリをするのが、十夜の知っている瑞貴だった。
だから、解っているハズなのだ。
ココで、何が起こっているのかを。
そして、解っているなら、そんないつも通りでいられるハズが、ないのだ。
赤也の責めるような言葉に、瑞貴は小さく俯いた。
友人に信じて貰えなくて傷ついているように見えなくもないが、それでも赤也は前言を覆すことはない。
「……バレちゃったか」
俯いたまま、瑞貴はポツリとそう呟いた。
口元に、小さな笑みが浮かぶ。
顔を上げた時、瑞貴は明るい笑みを浮かべていた。
今までに、見せたこともないような、子供っぽい邪気のない笑顔を。
「確かに、キミたちが知ってる瑞貴じゃないよ、今はね。それなりに演じたつもりだったけど、詰めが甘かったかな」
まるで種明かしをするように、可笑しそうに笑ってそう言う瑞貴は、確かに知らない人間に見えた。
そんな明るい笑顔も、悪戯を成功させた子供のような話し方も、初めて遭遇するものだ。
「…どういう意味なんだ…?」
誰何を発した本人でありながら、全く状況についていけないとでも言いたげに赤也が茫然と呟いた。
違和感を覚えたから追及したものに、こんな形で肯定されるとは思っていなかったのだろう。
「だって、しょうがないでしょ?あのまま気付かないフリで通してたら、キミたちが殺されちゃうし。そんなコトになったら、キミたちの知ってる瑞貴は間違いなく壊れちゃうだろうし、助けてあげるしかないじゃない?怖がってるフリなんてしてあげる余裕、なかったんだし」
子供っぽい口調と仕草なのに、まるで保護者のような雰囲気で瑞貴の外見の誰かはそう言って肩を竦めてみせた。
瑞貴にとって友人である存在たちに向ける瞳は、温かで優し気だ。
そこに敵意はなさそうだが、発せられる言葉はやや物騒で、思わず十夜は助けを求めるように雅臣に視線を向けたが、雅臣は何とも言えない表情で一心に瑞貴を見つめているだけだった。
「なぁ、オマエ、誰なんだよ…」
まだその答えを貰っていないと、赤也はやや警戒を薄めた声で問いかける。
結果的に助けてくれたのだから、敵だとは思いたくない。
何よりも大切な友人と同じ姿なのだから、出来れば警戒などしたくないのが本音なのだ。
「だから、瑞貴は瑞貴だってば。…ただし、空白の時間の方の、ね?」
何度も同じことを利くなとでも言いたげな、やや呆れた様子で答えた後、幼い笑みを浮かべて瑞貴はそう言った。
「空白の時間?」
何のことだかさっぱりわからないと言いたげに、赤也が首を傾げる。
どうやら敵ではないらしいが、それにしても一体コイツは何者だとでも考えているような様子だ。
「教えてあげたいけど、たぶん知らない方が倖せでいられるし。あと、キミたちがよく知ってる方の瑞貴は知られたくないと思うけど。ソレでも聞きたい?」
人の悪い笑みを浮かべ、瑞貴はくすりと笑う。
どこか傲慢にも見えるその様子は、やはり【コンクエスト】の【杜若】を彷彿させる。
生まれながらの姫君のように振舞う【杜若】に通じるということは、支配者の風格が備わっているという、そんな雰囲気だ。
それ以上に子供っぽい仕草と、大人の妖艶さを同居させたような独特の雰囲気が、目の前の存在を一層捉えどころのない存在に見せる。
「その言い方はちょっと意地悪じゃないですか~?可哀相ですよ~」
今の瑞貴を瑞貴だと受け入れているのか、それとも深く気にしていないのか、雅臣は普段と変わらない様子で苦笑を浮かべている。
いや、普段よりももっと親密な雰囲気に見える程、雅臣は自然な様子で話しかけていた。
「そうかなぁ…。でも、今を瑞貴と呼びたくないんだろうし、せめて呼び名くらいあげるべきかなぁ。…何て呼ばれてたっけ」
本気で困っているわけではなさそうだが、瑞貴は困ったような表情を作りながらも楽しそうな口調でそう言う。
困っているというより、周囲が困惑しているのを楽しんでいるような雰囲気すらあった。
「もう、意地悪なんですから~。ほら、皆がホントに困ってますよ~。ファレでイイじゃないですか~、はい決定。もう、話が進みませんから、皆さん、この子のことはファレって呼んじゃってくださいね~」
やれやれといった様子で、雅臣にしては珍しく強気というか、まるで保護者のような様子で窘めるように言葉を紡いだ後、勝手に呼び名を決めてそれを決定事項だとまで口にする。
「はいはい、もうそれでイイよ。6番目のファレね。それで、ファレに聞きたいことは?答えても支障がないことなら答えてあげるけど」
雅臣の様子に、今の名前をファレと決められた瑞貴の外見をした存在は、呆れたように見えてやはりどこか楽しそうだった。
「…えっと、ファレ?だから、空白の時間って、なんだよ…」
頼むから質問にはちゃんと答えてくれと、赤也は訴えるように同じ問いを重ねる。
「教えてもいいけど、絶対、キミたちが知ってる瑞貴には言わないでよね、ソレ。たぶんまた高宮がすっごい苦労するからさ…」
仕方ないなと大袈裟な仕草で肩を竦めると、ファレはあははと作り物めいた笑いを浮かべた。
「空白の時間っていうのはさ、要するに、行方不明になってた時間のコトだよ。その詳細は流石に教えてあげられないけど、気付いちゃった子もいるみたいだし、ソレは仕方ないよね」
意味ありげな視線を拓海に向け、ファレは悪戯っぽい笑みを浮かべて見せる。
「何か知ってんのか?」
赤也は、ファレの視線の先を追って、拓海を振り返ると目を瞬かせて驚いたように疑問をぶつけた。
「推測の域だし、流石に暴露出来るような内容じゃない。仮にそれが正解なら、絶対に口には出来ないような代物だ」
正面から疑問をぶつけられた拓海は、一瞬だけ苦虫を噛み潰したようなような忌々しげな表情を浮かべた後、淡々とした口調でそう告げる。
「そうだよね、言えるワケないよね。みんな、友達想いで、仲良しでいいね。瑞貴がどうしても一緒に行くって言うわけだ」
まるで完全に他人事のように、ファレは楽しそうな笑顔で赤也と拓海、祐一、十夜に視線を向けた。
否、ファレにとっては、たぶん、完全に他人事なのだろう。
見た目が友人と同じなだけで、空白の時間の方というからには、要するによく知っている普段の瑞貴が持ちえない記憶を有している方ということだ。
つまり、ファレには、瑞貴を友人だと言う十夜たちとの記憶は存在していないということになる。
「…こんな怖い目に遭うと、まるで知ってたみたいな言い方だな」
自分たちを見守るように見ているファレに、祐一は僅かな敵意を見せてそう吐き捨てた。
知っていて黙っていたのかと、責めるような声だ。
「瑞貴は、最初から聞かされてたんだ。極秘の話をね。だから、大人しく待ってろって言われてた。それなのに、無理を通して強引に一緒に来たんだよ。こうなることが解っててさ」
どういう意味か解る?とファレは苦笑しながら再びぐるりと4人を見渡した。
立ち位置の関係なのか、ファレが雅臣に視線を向けることはない。
「…わかんねーよ」
一体全部、何がどうなっているのかと、赤也は思い切りファレを睨み付けた。
今の言葉で、やはり味方ではないのかと、再び警戒心を抱いたようだ。
「ファレに敵意を向ける前に、冷静に考えてよ。ファレがいなかったら、皆、殺されてるよ?思い出してみてよ。ドアを開けたのは、誰?ファレは敵じゃないよ。強いていうなら、キミたちの大事なお姫様に、キミたちの護衛を任されたナイトって立ち位置なんだから」
いい加減理解してよとでも言いたげに、ファレは呆れたような表情でそう言った。
よく知っている相手と同じ顔で、同じ声で、絶対に言わないようなことを言う。
その光景に、十夜は完全に思考を停止したくなった。
「全然わかんねーよ!ちゃんと説明してくれ…!」
考えたくない、考えられないというのは、赤也も同じだったらしく、まるで懇願するような悲痛な声で訴える。
「出来る事なら1から10まで全部説明してあげたかったんだけど、瑞貴がキミたちについて行く条件が、何も説明しないことだったんだ。だから、ファレも説明してあげられないんだよ。それに、もう時間切れだしね。…最後に、1つだけ言っておくね?」
駄々を捏ねる子供に言い聞かせる大人のような口調で、ファレは仕方ないとでも言いたげに再び軽く肩を竦めてみせた。
芝居がかった仕草に見えるが、何故かしっくりとくる。
最後に、ファレはにっこりと笑った。
邪気を感じさせない、子供のような愛らしい満面の笑顔は、やはり瑞貴の表情に見えない。
「瑞貴は、たぶんこうなることまで全部理解して、それでもキミたちをどうにかして無事に帰したかっただけだよ」
だから、ファレは敵じゃない。
それだけ言うと、ファレはくるりと踵を返す。
そのまま、出て来たばかりの洋館の正面玄関の方へ、1歩足を進めた。
何をする気なのかと思いながらも、十夜は止まれと口にすることが出来ないまま、ただ後ろ姿を見つめる。
玄関を開ければ、アレが待ち構えていることは、解っているはずなのに。
止めなければ、アレに襲われるのだと、理解しているのに、止まれということが出来ない。
金縛りにあったわけでもないのに、動くことも声を発することも、出来ずに立ち尽くしていた。
「行っちゃダメですよ~」
場違いなほどのんびりとした声と共に、雅臣が玄関とファレの間に立ちふさがると、へらりとしたいつもの笑みを浮かべてみせる。
「…時間ないけど、片付けちゃわないと…。コレは、わたしがやらないといけないでしょ?」
ファレの、さっきまでとは違って、どこか暗い声が聴こえた。
十夜たちには背を向けているので、一体どんな表情をしているのかは、解らない。
知っている人間と同じ声だというのに、話し方が違うだけで、完全に別人だと思えてしまう。
「いいえ~今回は時間切れです~。みなさんで、仲良く一緒に帰りましょう~。たぶん、皆さん、置いて行ったりしないと思いますから~」
そもそも車を運転するのはボクですしと、どこまでも場違いなくらい明るく、穏やかな声で雅臣は柔らかな笑みを浮かべている。
「…置いて行ってくれても、いいよ。たぶん、瑞貴も怒らないだろうし」
まるで最初からそのつもりだったとでも言いたげな、ファレの声は静かで暗く響く。
翳を帯びた、どこか淋しそうな声。
その言葉に、十夜は先ほどのファレの言葉を脳裏で反芻した。
こうなることが解っていて、瑞貴はついてきたのだと。
無理を通して強引に、結果を知っていながら、ついて行くことを決めたのは、ファレじゃなく瑞貴なのだと。
恐らく、こうなることという言葉には、ファレがココに留まることを選ぶところまで、きっと含まれている。
十夜の知っている瑞貴とは、そういう人物だ。
決して悟らせず、かなり先まで見通して、自分たちを導くようにそっと道を示してくれる。
その時、瑞貴は、いつも自分の事を後回しにするというか、完全に度外視して、瑞貴にとって大事な友人たちの事しか考えていないのだ。
「おい、馬鹿瑞貴。貴様、面倒だからって説明を省いただけじゃないだろうな」
意を決し、十夜は出来るだけ挑発的に、友人と同じ姿の後ろ姿に声をかける。
「…説明出来ない事情があったって、ちゃんと言ったんだけど。あと、ファレを瑞貴って呼んでいいの?」
顔だけで十夜を振り返ると、ファレは苦笑いの表情を浮かべてそう口にした。
「正直、貴様は色んな顔がありすぎて、いちいち分けて考えるのが面倒なんだっ。瑞貴も、彩夢も、杜若も、それからファレも、全部ひっくるめて貴様だろうが…。呼び方程度で何かが変わるワケじゃないだろ」
本当は、ファレだけは、違うと頭では理解している。
少なくとも、ファレには十夜たちと何かを共有した記憶はないのだと解っている。
何故なら、ファレは、1度も友人たちの名前を呼ばなかったのだから。
恐らく、記号としての名前は知っていても、友人として名前を呼ぶことが出来なかったのだろうと、理解している。
それでも、やっぱり、瑞貴なのだと十夜は勝手に思っていた。
「俺たちに死なれたくなかったんだろ?ソレで充分だ」
昨日からの出来事を、思い起こしながら、十夜は言い含めるように強い声ではっきりと告げる。
瑞貴は、自分が襲われる分には構わない言ったのだ。
十夜が襲われるよりは、余程いいと、洋館を前にした車の中で笑っていた。
あの時は、ただの冗談だと思っていたのだが、恐らくこういうコトだったのだろうと今になってようやく理解出来る。
そしてファレは、自分がいなければ皆殺されていたと言った。
本当なら、ファレと名乗ったもう1人の瑞貴は、自分たちを助ける必要などなかったはずだ。
「…別に、ファレが死なれたくなかったワケじゃ…。ただ、みんな仲良しだから、誰か1人でも欠けたら嫌なんだろうなって、思っただけだよ」
どういう表情をすればいいのか迷っているのか、困惑したような表情でそう言うファレは、十夜のよく知っている瑞貴と同じ表情だった。
指摘されたくないことを指摘した時の、困ったような、それでいて少しだけ照れたような。
「その中に、貴様も含まれてるだろうが!何で危ない場所に戻ろうとするんだ!」
馬鹿だろうと、十夜は普段、瑞貴に怒鳴るのとまったく同じように、思い切り馬鹿にしきった様子で怒鳴る。
その声に、ファレの目が大きく見開かれた。
よほど驚いたのか、ぱちりと目を瞬かせたあと、まるで理解出来ない生物でも見ているかのような視線を十夜に向けている。
「はい、残念でした~。時間切れです~」
そこに、雅臣の底抜けに明るい声が響いたかと思えば、雅臣の割には強引な様子で瑞貴の身体をくるりと十夜たちの方へ向けて、思い切り突き飛ばすように押した。
「おいっ!」
それに慌てて即座に反応したのは、拓海だ。
ファレだろうが瑞貴だろうが、どっちにしても突き飛ばされたくらいで怪我などしないことくらい解っているが、たぶん反射的に保護しなければと思ったのだろう。
「…大丈夫か?」
ギリギリで抱き留めると、拓海は普段から瑞貴にしているのと何ら変わらない様子で心配そうに覗きこむ。
拓海の中で一体どういう処理がされたのかは不明だが、自分に対する記憶を持たない相手でも、保護する対象だと考えているのかもしれない。
「…おい…?」
抱き留めた相手から何の反応も返ってこないことに、拓海は訝しみながら顔を覗きこむようにして優しく声をかける。
それでも、何の反応も返さないどころか、糸の切れた操り人形のように意識すら手放してしまったらしい。
拓海は、これは一体どういうことなのかと、珍しく責めるような視線を雅臣に向けた。
雅臣が瑞貴に危害を加えるなどあり得ないと解っていても、そうとしか思えないくらいタイミングが良すぎる。
「時間切れって言ったじゃないですか~、ボクのせいじゃないですよぉ~」
責められる視線に刺されながらも、雅臣は気にする様子を見せずにへらりと笑って見せた。
「時間切れ?どういう意味だ?大丈夫なのか?」
1人だけ、恐らく状況を把握しているだろう雅臣に、拓海は刺すような視線を向けたまま、瑞貴を抱き留めた腕に力を込める。
「薬で強制的にファレを覚醒させてただけですからね~、目を覚ませば、瑞貴さんは大丈夫ですよ~。まぁ、薬の影響が全くないワケじゃないと思いますけど、無事は無事ですから安心してください~。っていうか、なんでボクが責められるような目で見られてるんですか~…。ボクが瑞貴さんに危害を加えるなんて、あるワケないじゃないですか~…」
心底心外だという様子で、雅臣は盛大にため息を零す。
何故そんなに警戒されているのか理解出来ないとでも言うように、普段と変わらないどこか自信のなさそうな笑みを苦笑いの形に変える。
「…なぁ、雅臣。お前、一体、何を知ってるんだ…?」
自分たちの知らない、何を知っているのかと、拓海は静かな声でそう問いかけた。
そこには、先ほど一瞬だけ見せたような警戒の色はない。
代わりに、相手を案じるような、それでいて窺うような、何とも言えない空気が滲んでいる。
「拓海さんが思ってる通りのことだと思いますよ~。さて、皆さん、いつまでもココに居たら、さっきのが出てきちゃいますし、戻りましょうか~。それに、瑞貴さんが目を覚ましたら、今度こそパニックになっちゃうでしょうからね~」
雅臣は明るい口調でそう言うと、まるで引率者のような風情で友人たちを車へと追いやった。
「何が何だか、オレ、さっぱりなんだけど…。本当に帰っていいのか…?」
強引に車に追いたてられながら、赤也が消化不良のような表情で雅臣を振り返る。
赤也の言葉は、そのまま十夜と祐一の言葉でもあるらしく、同意だと言わんばかりに2人も雅臣に視線を向けていた。
「赤也さんはこんな場所にいたいんですか~?大丈夫ですよ、帰りましょう~。十夜さんが言ったじゃないですか、みんなで一緒にって~」
重ねて急かすように友人たちを車に追い立て、さっさと席に着くように促しながら雅臣は相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。
往路とは異なり、最後部に祐一と十夜が大人しく乗り込むと、その前に拓海が瑞貴を抱えたまま乗り込んだ。
まだ何か雅臣に言い足りない様子の赤也は、当然のように助手席に乗り込む。
「それじゃ、出発しますよ~」
車のエンジンをかけ、雅臣は車のドアロックを掛ける。
まるで何事もなかったかのように、車はゆっくりと発進した。
細い道を戻り、森を抜ければ、閑散とした小さな農村へと出る。
寄る必要もないので、そのまま車は村を抜けていく。
車内には重い空気が流れ、十夜は居心地悪く窓の外を眺めていた。
来る時は雨だったせいもあって案山子くらいしか外に出ていないかったが、晴れの日の昼間ともなれば、誰かしら外に出ているのではないかと特に深く考えずに流れゆく景色を見つめる。
ふと、少し離れた畑らしきところに人影を見つけて、思わず目を凝らす。
確か、昨日、案山子を見かけた場所に近い。
恐らく農作業をしているのだろうと思いながら、その姿を確認しようと目を細めれば。
「…なっ…」
視界の先に在ったのは、農作業をする人でも案山子でもなかった。
十夜の驚愕の声に、何事かと祐一までもが窓の外へ視線を向ける。
流れゆく景色の向こう。
ゆらゆらと蠢くのは、見間違いようのない、アレの影。
既に遠ざかる風景の中に、確かにアレがいた。
それを確かめようと振り返るが、もはや遠く離れすぎていて、確かめる術はない。
往路よりも早い速度で、車が道を走り抜けていく。
昨日が雨だったからだという理由以外に、まるで急がなければいけない別の理由があるかのように、速度メーターにはこんな山道で出す速度ではない数値が刻まれている。
そのまま通行止めにしてあった場所を通り過ぎ、いつの間にか赤也が道を尋ねた辺りへと差し掛かって、ようやく少しだけ車の速度が緩やかになった。
道を尋ねた、あの白いワゴン車が今日も同じ道に見える。
この村の住人なのだろうから、別にこの場所で毎日見かけてもおかしいわけではないのだが、妙な違和感を覚えて白いワゴン車を凝視してしまう。
乗っていた男性も同じだが、今日は異なる服装で車の前に立っていた。
車から伸びる黒いコードは男性が手に持っている黒い物と繋がっていて、見間違いでなければ無線だろう。
まるで、何か映画で見るような特殊工作員のような雰囲気に見えた。
そして、その男が、何かの合図を送ったのが見えたが、ちょうど車が角を曲がったので、一体何をしていたのか、わからず終いだ。
どれくらい車を走らせただろうか。
無言のまま、重い空気が支配する車内は、お世辞にも居心地がいいとは言えない。
「…あれ……?」
そんな車内に、小さな困惑の声が落ちる。
重い空気をぶち壊すような、穏やかな声の主は瑞貴だった。
「…起きたか?」
今までの出来事をまるで感じさせない普段通りの口調で、拓海が瑞貴を覗きこむように声をかける。
助手席から、赤也が身を乗り出すようにして背後の2人を窺っていた。
「…うん。ええと、寝てる間に、僕、何か迷惑かけた…?…覚えてないんだけど…ごめんね?」
起き上がる時に、何とも言えない表情で後部座席を覗く赤也と目が合ったためなのか、瑞貴は小さく首を傾げた後、友人たちの顔色を窺うように控えめにそう口にする。
「…いや、迷惑とかじゃないけどさ…」
その言葉に、赤也はばつが悪そうな表情で、言葉を濁らせた。
今までの出来事を言うわけにもいかず、かと言って完全に吹っ切れたわけでもない。
もしかすると、赤也はまだ、もう1人の瑞貴とでも評すべきファレに対して、完全に警戒を解いたわけではないのかもしれない。
目の前で繰り広げられる友人たちのやり取りを見て、十夜はなんとなくそんな風に考えていた。
「赤也…肝試しで本当にお化けでも見たの…?だから、事件のあった場所だよって教えておいてあげたのに…」
本当に何かを見ても僕の責任じゃないからね、と瑞貴は軽く肩を竦める。
その様子を見て、赤也は嬉しそうに破顔した。
「怖がって引きこもってた奴に言われたくねーよ!それに、オレだって言っただろ?お化けくらい退治してやるってさ」
赤也はようやく普段通りの、気の置けない友人に向ける笑みを浮かべると助手席から手を伸ばし、瑞貴の髪をぐしゃりと撫でる。
「実際に大半を退治したのは、俺だけどな」
瑞貴の横から、苦笑交じりに拓海が言った。
赤也を小馬鹿にするような口調ではあるが、拓海の声は普段より少しだけ明るく聞こえる。
今度こそ、日常に戻ってきたのだと、十夜はそこでようやく心からほっと安堵した。
目の前にいるのは、紛れもなく自分がよく知っている友人だ。
「なぁ、瑞貴」
何気なさを装って、十夜は友人に声をかけた。
「何?十夜、どうしたの?」
くるりと振り返って、仄かな笑みを浮かべているのは、十夜がよく知る瑞貴に相違ない。
一見何を考えているのか分からないような、穏やかで柔らかい微笑みが十夜に向けられる。
「…いや、身体は大丈夫か?」
一瞬だけ何を言えばいいのか考えた末、十夜は当たり障りのない言葉を選んだ。
「…うん、たぶん。病院に戻ったらまた検査されるだろうけど、今のところ大丈夫だと思うよ?」
何故そんなことを聞くのだろうと、瑞貴は不思議そうに首を傾げてみせた。
「…あ…いや…それならいいんだ…」
十夜はまさか話題に窮した挙句に聞いただけだとも言えず、曖昧に言葉を濁す。
「心配しなくても大丈夫だよ、十夜」
そう言って、瑞貴はふわりと微笑んだ。
安心させるような、いつもの柔らかな笑顔を見るだけで、全部終わったのだと思えた。
その光景を見守るように柔らかな視線を向けていた拓海は、ふっと視線を別の方へと向ける。
たまたま、バックミラー越しに後ろの友人たちの様子を微笑ましそうに見ていた雅臣と、ミラー越しに視線が合った。
穏やかな瞳を向ける雅臣は、ミラー越しに拓海にも柔らかく微笑みかける。
それに応えるように口元にだけ笑みを刻むと、拓海は窓の外へ視線を向けた。
その手には、洋館から持ち出してきた1冊のノートと、1枚の古びた写真がこっそり握られている。
写真には、まだ幼い小学生低学年くらいの子供たちが十数人と、今の彼らと変わらないくらいの年齢に見える少年少女が合わせて7人、それから、白衣姿の大人が何人か映っていた。
拓海は、その写真を、こっそりと服のポケットに仕舞う。
まるで他の誰の目にも触れないように。


実験は失敗した。
遺伝子レベルで強化を施すはずのウィルスは、強力すぎて人体の改造に伴って思考能力や果ては自我までを失わせる破壊力を持っていた。
そのウィルスを投与された失敗作の子供たちは次々に変容し、成功作の子供たちに襲い掛かっている。
ウィルスの実験は失敗した。
この研究所は閉鎖するしかない。
上層部がそう通達をしてきたのと、6番目のセフィラがレヴィアタンに連れられ検査室にやってきたのは、ほとんど同時だった。
家族だと教え込まれた子供たちに襲われたショックで調整が狂ったのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしく、他のセフィラに先んじて、何らかの実験に失敗だと理解しているらしく、対処法の確認に訪れたという。
この子は、唯一の成功作だ。
この子なら、11番目の隠された真理、知識のセフィラの域まで到達出来るかもしれない。
だが惜しい。
もう時間がない。
すべて手遅れだと説明するなり、6番目のセフィラは検査室を出て行ってしまった。
今から追いかけても、もう間に合わない。
あの子も殺されるだろう。
この研究は、悪魔の研究だった。
悪魔の名を冠する存在を生み出した時点で、止めなければいけなかった。
我々が造り出したのは、弱き者の導き手たる天使ではなく、罪人を裁く天使だ。
もし、誰かがこの文章を読むことがあったなら、どうかあの憐れな子供たちを責めないで欲しい。
あの子たちは、ただの醜い実験の犠牲者だ。
好きでヒトでなくなったのではない。
我々が責任を取って、罪を濯ぐために、人柱にったところで、あの子たちは誰も救われない。
だからどうか、いつかこの文章を読んだあなた。
もし、あの子たちが生きていたなら、代わりに救ってやって欲しい。
それだけが、唯一我々に残された、罪滅ぼしの方法なのだから。

研究日誌より、抜粋。

作者:彩華
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