Fragments

来々ゾンビーズ(仮) 3

時刻はそろそろ夜の10時を回ろうかというところで、隠しカメラを想定したカメラが回され始める。
各人が与えられた役割をごく自然に演じている談話室は、確かに見ている人間が居れば完璧なモキュメンタリーホラーの始まりに見えた。
もっともカメラが回り出してから、まだ誰も発言をしていないので厳密には演じているというわけでもない。
カメラを設置する際に、わざわざ隠しカメラ感を出そうということで、録画はモノクロモードの上、更にはレンズの上にラップをかけてわざと暈して撮るという徹底ぶりを発揮したせいで、確認のために覗いた液晶は本当によくある外国のホラー映画冒頭のように見える。
「…今更だけど…ホントに肝試しなんて、するの…?」
カメラが回り出してから無言だった談話室に、瑞貴の声が響く。
いつもながら大きな声を出しているわけでもないのに、自然とよく通る不思議な響きの声は、暗い洋館という雰囲気ととても合っていたが、既に薬が効き始めているのか、十夜の知っている声よりも少しだけ幼い気がする。
もちろんただの演技の可能性もあるのだが、一層雰囲気には合っている気がした。
暗い洋館とは言っても、もちろん談話室は灯りが点いており、実際に部屋の中が暗いのではない。
しかし、カメラを通して見る部屋の中は、あくまでモノクロで暗く見えるというだけの話だ。
「ココまで来ておいて、今更何もしないで帰れるワケないだろ?」
応えたのは拓海で、苦笑交じりに言われた言葉といい表情といい、状況を楽しんでいるようにしか見えない。
「オマエさ、心配だからってついてきたのに、まさか怖いとか言うわけ?」
からかう様な口調でそう言って軽く笑い飛ばしたのは赤也で、軽い調子といい笑顔といい、肝試しには不釣り合いな程の明るさだ。
十夜から見て、この3人の会話は、普段通りの完全な通常運転にしか見えないが、それでも間違いなく打ち合わせ通りの役どころなのだから、尊敬を通り越して呆れの境地だった。
「来る前も言ったけど…この洋館、過去にホントに人が亡くなった場所なんだよ…?」
本当にそれが真実だと思わせるほど、訴えるような瑞貴の様子は真に迫っていて、確かに怖がるフリをしても演技だと見破られない自信があると言うだけのことはある。
「何を言っている…。この日本で、過去に誰も死んでいない土地を探す方が至難だと思うが?」
祐一は横から自然と口を挟むと、瑞貴の言う内容など些細な問題だとでも言う様子で肩を竦めてみせた。
不思議なくらい普段の彼らの様子と変わらなく見えるのだが、それでも彼らは与えられたキャストに忠実に言葉を選んでいるだけである。
「…そういうのじゃなくて…事件があって…」
瑞貴は、まるで話したくない事を話そうとしているかのように、頭を振って訴えながらも言葉を濁す。
「地下室に閉じ込められた子供たちが逃げ遅れて死んだという話か?」
事件という言葉に、十夜は思わず車の中で瑞貴から聞かされた話を思い出し、素で呆れた声を上げていた。
火災に巻き込まれて死んだという触れ込みなのに、洋館が丸ごと残っているのだからあり得ないと指摘したばかりだろうと思ったが、言いかけて危うくカメラが回っていることを思い出し思いとどまる。
「この洋館には隠された地下室があって、攫われてきた子供たちが閉じ込められていたんですよね~。ところが、最終的には隠し扉の存在を知る人がいなくなっちゃって、そのまま生き埋めになっちゃったって話ですよね~?」
言葉を引き継いで説明を始めたのは、雅臣だった。
打ち合わせたわけではないはずなので、雅臣が考えた話だろうが、火事云々よりは余程信憑性のある話に思えて十夜は少しだけ感心する。
まさか雅臣が咄嗟にこういう作り話を考えられるとは思っていなかったからだ。
「隠し扉の場所を知る人間が居なくなったという流れで、よくある怪談話と同じではないのか?よくあるだろう?全員殺されたと言う流れの話で、ならばその話はどうやって伝わったんだという類の怪談話が」
祐一が的確といえば的確な言葉で雅臣の話を否定する。
よくある伝聞系の怪談話で割とよくある、全員が殺されたはずなのに、話を伝えた誰かがいるという不思議な矛盾の生じるあのパターンだと、要するに信憑性はない典型的な話だ。
この場合、地下室への隠し扉を知る人が誰もいなくなったのに、いなくなった事や地下室に人がいたことが伝わるという流れに矛盾が生じるために、誰も知らないはずの地下室の話がどうやって伝わったのか説明出来ない以上はよくある与太話と言われても仕方がない。
肝試しの導入部分としてはまずまずの流れだが、モキュメンタリーホラーとして考えれば見る者の恐怖を煽るには至らないその流れのまま肝試しに出発かと身構える十夜だったが、残念ながらというか当然ながらというか、そこで話が途切れることはなかった。
「…声が…」
ポツリと、独り言のように小さな声で、瑞貴が呟く。
視線は床に落とされており、厳密にはどこを見ているのかさっぱり分からない。
「声ぇ…?」
何か聞こえるのかと、赤也が耳を傾ける仕草を見せる。
当然ながら何も聞こえるはずもなく、赤也は訝しむような表情で首を傾げた。
「そう…声…。扉を開けてって…。ずっと、何度も、繰り返して…」
まるで今もその声が耳の奥から離れないとでも言わんばかりに、瑞貴は怖がるでも怯えるでもなく、けれども今にも泣きそうな声でそう言う。
本当に瑞貴には閉じ込められた子供たちの悲痛な声が聞こえているのではないかと思うような、恐怖よりも痛ましさに彩られた表情は、演技だと知っていても到底演技に見えるようなものではなく、十夜はただただ感心するばかりだ。
すぐ近くにいる友人たちの誰かに向けた言葉というよりも、ただの独り言のように聞こえる声音は、暗い色に彩られていた。
「そんなに怖いならオマエはココにいろよ。オレたちだけで行ってくるからさ」
しょうがないなとからかう様な口調のままで、赤也は気にも留めていない様子を見せる。
今にも部屋を出て行きそうな雰囲気に、十夜は上手いなと思う反面、完全に素ではないかと感じていた。
よくあるモキュメンタリーホラーなら、真っ先に犠牲になるような役どころだが、残念ながらこのモキュメンタリーホラーでは恐らく最後まで無事なのはまず間違いない。
そもそも何も起こるハズもなく、そして仮に何かが起こったところで、赤也をどうにか出来るような人間がそうそういるとは思えないからだ。
「…ダメだよ…。それじゃ、皆、殺されちゃうから…」
本当に小さな、辛うじて聞きとれるくらいの囁くような声でそう言うと、瑞貴は顔を上げた。
どこか甘い響きを含む声音と、何も映さないような深い瞳、それから言葉とまるで合っていない、無邪気な微笑みは、思わず息を飲むほど狂気を孕んで見える。
演じているだけだと知っていても思わず背筋を冷たい物が滑るおちるような凄絶な笑みはすぐに消え去ったが、代わりに瑞貴は壊れた人形のように表情を完全に消し去ってみせた。
そういう役どころだと知っていても、十夜は思わず真剣に瑞貴の精神状態を心配してしまうくらいだ。
これがこういうものだと打ち合わせをしていなければ、思わず肩を揺さぶって正気に戻した挙句、冗談が過ぎると怒鳴ったに違いないのだが、あくまでもこれはモキュメンタリーホラーの冒頭だと理解しているので、なけなしの自制心で以って辛うじて傍観に徹していられた。
「どうせ何も出てこねーよ!んじゃ、オレたち行ってくるからさ、大人しく待ってろよ?」
明るく笑い飛ばしながらもしっかりとフラグを立てる発言をして、赤也はすくっと立ち上がる。
「暗いからな。万が一戻って来なくても、朝までココを動くなよ?怖いんだろう?」
煽るような口調でさらにフラグを立てながら、拓海も赤也に倣って立ち上がった。
同時に、ハンディカメラのスイッチでも入れたのか、液晶を確認しながら片手で構えている。
「行くならさっさと行ってしまえ」
追い払うような仕草で2人を見送りながら、十夜はどうせ何も起こらない上に彼らは仕掛け人だと内心呆れきっていた。
打ち合わせでは仕掛けに引っかかる役は十夜と祐一の2組目の予定で、だいたい15分くらいしたら追いかける手筈になっている。
そんな短い時間で果たして仕掛けの準備が出来るのかと思わないでもないが、あの2人なら不可能を可能にすることくらい余裕だろうと、十夜は深く追求することを放棄してしまった。
光源はあくまでも散策用に用意した防災用懐中電灯のみで、本当に怪我なく1階散策を終えてここまで戻って来られるかという心配は、あの2人は無用なのだが、後を追いかける他のメンバーも録画に映していい光源はやっぱり懐中電灯だけなので、むしろ心配なのは後続部隊の方だ。
「…あ~あ、行っちゃいましたか~。…心配しなくても、ここにいれば安心ですからね~」
ドアから出て行った2人を見送った雅臣は、あくまでも役柄に忠実なのか素なのか分からない様子で瑞貴に話しかけている。
判別つかない理由は、相手のスペックを無視して無駄に過保護なのが通常運転だというコトに加え、そういう時の雅臣はまるで子供に言い聞かせるような口調になっているので、はっきり言って今の役どころと完全に一致しているからだ。
雅臣には演技など出来ないだろうという配役上の配慮のせいもあって、ごく自然にモキュメンタリーホラーの1シーンが出来つつある。
台本はないので全員がアドリブなのだが、その割にはそれなりの出来になりそうだと、十夜は超スゴイのかただのバカなのか分からない友人たちに感心すべきか呆れるべきか悩んだ末、結局呆れる方を選んだ。
十夜は口にこそ出さないが、友人たちの作り出したモキュメンタリーホラーの構図の違和感のなさに、正直驚いていた。
どうせ後で編集して、実際には赤也と拓海が撮っているだろう映像を入れると解っている時間は、率先して会話を繋ごうという奇特な者はいない。
元々談話室に置いてあった年代物の置時計の秒針がカチカチと無機質な音を立てる中、特に何をするでもなく、役割に忠実にしながら彼らはただその場所に留まっているだけだ。
赤也と拓海は真っ直ぐに1階に向かったハズなので、間に2階を挟んでいるせいなのか、洋館はとても静かで、階下の音が殆ど聞こえない。
流石に故意に大きな音を立てたら聞こえるのかもしれないが、重厚な造りの洋館では、自然と防音機能にも富んでいるだろう。
3階の廊下も、彼らが待機しているこの談話室も、それからダイニングルームも、深い絨毯が敷かれているので、足音すら響かないのだ。
「…それにしても、戻ってこないな…」
暇を持て余し、カメラからの死角でずっと時間を確認していた十夜は、そろそろ時間だと室内の友人たちを振り返った。
「何かあったとは考えられんから、もしや俺たちを待ち構えて驚かすつもりではないか?」
苦笑と共に、打ち合わせ通りの内容を口にしながら祐一は了解の意を込めて頷いてみせる。
次は、十夜と祐一がこの部屋を出ていく番だ。
行くかと目で会話をしながら立ち上がる2人に、雅臣が驚いたような表情を向けた。
「お2人とも、まさか、追いかけるんですか~?」
まさかも何も、実際そういう筋書きだと理解しているはずの雅臣だが、隠れた演技の才能でもあるのか本当に意外そうな声を上げる。
「脅かすつもりで待ち構えているのなら、行ってやらねば何時まで経っても2人が戻って来ないだろうからな」
仕方あるまいと祐一は困った友人たちだとでも言いたげに肩を竦めてそう言った。
「入れ違いで戻ってくる可能性もあるからな。貴様らはここで待っていろ」
十夜はそう言うと、打ち合わせ通りにハンディカメラを起動させる。
「そのカメラは何に使うつもりだ?」
当然カメラの用途を知っている祐一だが、肝試しを録画してくるのはあくまで最初に出て行った2人だろうと言わんばかりに不思議そうな表情を浮かべていた。
「後から来る俺たちを驚かす気なんだろう?あの馬鹿共は。だったら逆に脅かして、間抜けな様子を収めてやるんだ」
人の悪い笑みを浮かべ、十夜はカメラを片手にそう言うと廊下へ出るべくドアの方へ歩いて行く。
「…行かない方がいいと思うよ…」
ドアに手を掛けた十夜の方を見もせず、ポツリと呟くような声で瑞貴が制止の言葉をかけた。
演出だと理解していても、思わず足を止めてしまう程、本当に外に出たら何かが起こるのではないかと疑ってしまうほど、不思議なほど浸透する声があまりにも印象的で、十夜はドアに掛けた手に力を込める。
もし、自分がこの映像を見ているだけの人間なら、画面の向こうで無責任にさっさと行けと思うような、あたかも何かが起こることを暗示しているような雰囲気に、十夜はやりすぎだと言いかけて寸でのところで言葉を飲み込んだ。
「そんなに遅くはならんだろうが、戸締りはしっかりしておくのだな」
笑いを噛み殺すように祐一は可笑しそうな口調で言うと、行こうと十夜を促した。
十夜よりも他の友人たちの方が付き合いが長い分、空気を読んで合わせるというスキルに長けているせいもあって、何度もツッコミを入れそうになる十夜とは違い配役に徹することが出来るようだ。
ドアを後ろ手に閉め、隠しカメラに映されることがなくなった瞬間、十夜は盛大にため息をついた。
変な話、うっかり余計なことを口走れないあの空間は、コンクールの舞台に立つのよりも緊張したのだ。
演技など絶対に出来ないと思っていた雅臣まで配役に忠実な発言をしていたのには驚いたが、他のメンバーに関しては全く意外性はなかった。
むしろあいつらならそれくらい朝飯前でやってのけるだろうと思っていた十夜ではあるが、自分がソコに加わるとなれば別の話で、不自然にならないように気を配りながらの発言は実に神経をすり減らす作業だ。
「今からが本番なのだぞ」
気を抜くなというように、祐一は十夜の肩を軽く叩くと歩き出した。
既に十夜が手に持ったハンディビデオカメラは回っていて、この会話もマイクが拾っているはずだ。
「…わかっている」
十夜はそう応えると、気合を入れるように挑むような視線で顔を上げる。
宙を睨むようにしながら、懐中電灯を持つ祐一の後を真っ直ぐに追う。
階下へ続く階段に差し掛かったところで、確かに変わった造りだとしみじみと感じた。
それというのも、本当に隠し階段のつもりで造ったのか後から無理やり増築したのか、階段を降りた先にはドアがついていて、重みのあるドアを閉めてしまえばたぶん2階の廊下を歩くだけでは階段を見つけることが出来ないような、普通の部屋のドアと間違いそうになるくらいの場所に位置している。
瑞貴がこの階段を見つけた時にドアが開いていたのか閉まっていたのかは、実のところついて歩くのに必死で意識していなかった十夜の記憶に残っていないのだが、仮にドアが開いていたとしてもよく見つけたなと感心するような場所だ。
「…隠し扉なのか、防災用なのか判断に迷うな」
十夜と同じように階段の場所といいドアといい普通ではないと思ったらしい祐一は、苦笑交じりにそう言ってドアを押したり引いたりしている。
「…防災用?」
ドアの概観からどちらかと言えば前者のような気がする十夜は、最初から後者の発想はなかったために祐一の言葉に首を傾げた。
「3階にキッチンがあっただろう?火事の場合は、閉めれば少しは安全なのではないかと思ってな」
そもそも火も煙も上へ上へと移動する性質なので大差はないと思うがと添えながらも、祐一はドアを軽く叩いてみせる。
見た目は重厚な木製のドアなのだが、明らかにただの木製とは思えない鈍い音が返ってきて、十夜は目を丸くした。
「…この洋館の設計者は、一体何を考えてこんな造りにしたんだか…」
中に鉄板でも仕込まれていそうな鈍い音に、十夜は心底本気で呆れると、深いため息を零す。
まさか変わった造りの洋館だからあの愉快犯ばかりの学園関係者から肝試し会場に選ばれたのだろうかと邪推したくもなるレベルだ。
そんな会話をしながらも、2人は暗い中を進んで行った。
1階に到達する頃には、仕掛け人の2人がどんな仕掛けをしたのかと少しばかり警戒しないでもないが、たった10分強の時間でヤラセの肝試し風景を録画しつつ仕掛けを施すのだからたかが知れているだろう。
「あの2人がいるとして、やはり広い部屋であろうな」
祐一はあくまでも可能性を語っているような口調でそう言ったが、全員が把握している1階の部屋は最初のガラス張りの広い部屋しかないのだから、他に選択肢が存在するとも思えない。
「あんな場所で脅かされても見通しが良すぎて驚くに驚けないんじゃないか?」
あくまで演出だと理解している十夜は、祐一に場所を提示されるままにその方向へ歩を進めた。
そもそも、その部屋以外、全員が全貌を知っている部屋は1階にはないのだから、必然的にソコ以外ないだろうと十夜はこっそり苦笑する。
最終的に全員が1か所に集合するという筋書きなのだから、全員が把握している部屋で、かつ広くなければならない。
その条件を満たすのは、その部屋しか存在しなかった。
「無意味に荒らされていないといいがな」
祐一は芝居がかった様子で肩を竦めると、広い部屋へ続く廊下を歩く。
十夜はその様子を録画しながら、後を追いかけた。
もちろん部屋に着くまでに暗がりから脅かされるなどということもなく、あっさりと真っ暗な部屋に辿り着く。
「…何も荒らされていないな」
懐中電灯で部屋を照らしながら、祐一は意外そうに呟いた。
「てっきり脅かすならここだと思ったんだけどな」
同感だと、十夜も全く荒らされたどころか何一つ手が付けられた様子のない部屋を見て、しみじみと呟く。
懐中電灯の光だけで照らされた部屋は、暗くて全貌がよく分からないが、窓の近くで何かがチラリと動いた気がして十夜は首を傾げる。
「…今、何か動かなかったか…?」
ガラス張りの窓を指し、十夜は懐中電灯を持つ祐一に声をかけた。
「窓の方だな?」
十夜の言葉に、祐一が懐中電灯をガラス張り窓に向けて照らしながら動かす。
ガラスに反射して向こう側がよく見えない上に一面ガラス張りのせいで余計に判別し辛い。
「…カーテンか何かが動いたのか?」
自分の見間違いだったかと、十夜は首を傾げたまま懐中電灯の光を目で追った。
「風もないのに、カーテンが動くとすれば、あの2人が潜んでいるのだろうな」
窓は開いておらず、閉め切られた室内でカーテンが動く程の風は生まれないだろうと、祐一はくまなく懐中電灯で照らしながら小さく笑う。
そもそもガラス張りの窓には、景観を損なうせいかレースの薄いカーテンはかかっておらず、夜だけ使用すると思われる分厚い遮光カーテンが窓の脇に束ねられているだけだ。
カーテンの隙間に、子供ならともかく体格の良い男子高校生が潜むのはどう考えても無理だろう。
「見間違いだったか…?」
何度か懐中電灯を往復させても脅かし役の友人たちを見つけることが出来ず、十夜は自分が過敏になっていただけだったかと自嘲気味に呟く。
その次の瞬間、懐中電灯の光の中に、確かに蠢く何かを捉えた。
その何かを把握する前に、蠢く影が窓の側でゆらりと動いたかと思うと、ガシャーン!と、盛大にガラスが割れる音が、静寂に包まれた洋館に響き渡る。
割れたのは、ちょうど懐中電灯で照らされた、ガラス張りの一角。
蠢く何かが、盛大にガラス窓を割ったとしか思えない状況だが、ガラスは部屋の中に散らばっている。
「おいっ!?いくらなんでもソレはやり過ぎだっ!」
蠢く影は恐らく友人だろうと、十夜は思い切り怒鳴りつけた。
いくら人が住んでいない洋館だからと言って、やっていいことと悪いことがあるし、物事には限度というものがある。
モキュメンタリーホラーを撮っていることも忘れ、十夜は全力で吠えたが、そこでふと気づく。
蠢く影のシルエットが、見慣れた友人の物と違う気がする。
それに、内側から割ったのなら、ガラスは外に向けて散らばるはずだ。
だとすれば、ガラス窓は、外側から割られたということになる。
「…流石に学園側から怒られるのではないか…?」
十夜と同じ心境らしい祐一は、呆れた声でそう言うと蠢く影に懐中電灯を向ける。
そこに照らし出されるのは、人の悪い笑みを浮かべた友人の姿…ではなかった。
見たことのない、人に似たナニカの姿としか言いようがないソレは、確かに洋館とホラーという単語にセットで追加されても理解出来るモノに見える。
いや、こんな場所に、平和な日本の山奥に、そんなモノが存在するワケがないと瞬時に否定しながらも、確かにソレがガラスを割ったのだと理解出来てしまう。
「おいっ!今の音は何だ!?」
見間違いかと思いながら思考停止しかけた十夜の耳に、赤也の慌てた声が飛び込んできた。
「怪我はないかっ?」
さらに追いかけて来たのは拓海の声で、どちらも間違いなく背後から聞こえてくる。
流石に友人たちの声を聞き違えたりは、しない。
それが両方とも背後から聞こえて来たということは。
「…っうわぁぁぁぁっ!」
ようやく視覚情報の処理が終わったのか、ソレが何なのかを本能的に理解した瞬間、十夜は我を忘れて大きな悲鳴をあげていた。
ドッキリにしては、性質が悪すぎだ。
ソレは、限りなく人に近い形状をしている。
恐らくはヒト科ヒト目ホモサピエンスに限りなく近い遺伝子配列に違いない。
破れたり汚れたりで本来の機能を果たしているとは思えないが、ちゃんと衣服だって身に纏っている。
いや、ソレは、ヒトだ。
間違いなく、人間としてこの世に生を受けたモノに相違ない。
ただし、元、とでも言うべきだろう。
思考能力を持たない本能だけの存在のように、蠢くソレはゆったりとした足取りで、のろのろと近づいてくる。
伸ばされた手の先は中途半端にダラリと下がり、欠片も知性を感じない動作は、まるで操り人形のようだ。
何かを訴えるような、意味をなさない微かな呻き声がソレの口から洩れていた。
ガラスをぶち破ったせいなのか、至る所からポタリポタリと滴り落ちる赤黒い液体が生々しい。
床に散らばったガラスを踏む、ぐしゃりという音がやけに耳について、思わず視線を向ければ剥きだしの足に破片が刺さっていた。
ソレが1歩進むたびに、引きずられたような跡が絨毯に刻まれていく。
「…ゾンビ…?」
十夜よりも幾分か冷静なままだった祐一の茫然とした呟きが、まさしくソレの形状を正確に表していた。
ホラー映画やホラーゲームでよく見かける、変異した人間そっくりな、バケモノと評するに相応しいナニカがソコにいる。
「一体何事だっ!?」
真っ暗な中、懐中電灯の光に頼らずに部屋に駆けこんで来た赤也は、尋常ではない悲鳴を聞いたせいなのか開口一番そう言った。
そのまま入口で固まったまま懐中電灯をソレに向けている祐一と、状況を受け入れきれていない十夜を交互に覗き込む。
「…赤也、後ろだ」
そのすぐ後、懐中電灯を持っていた拓海は祐一と同じモノを照らし、警戒を促すように声を掛ける。
「なっ!?」
さすがの赤也もソレの姿には驚いたようで、振り返るなり悲鳴は上げないまでも驚愕の声を上げた。
その間にも、ソレは着実に近づいてくる。
「みなさ~ん、何があったんですか~?」
そこへ、3階から降りて来たにしては早いと思われるタイミングで雅臣が駆け込んできた。
懐中電灯の光を頼りにして着いた割りには早すぎると思ったが、雅臣が手に持っているのは1部屋を照らす目的の、大きなランタン型の灯りだ。
待機場所やダイニングルームを照らしていた大きな灯りは、明々とソレを照らし出すこととなったが、友人たちしか視界に入っていない雅臣は不思議そうな表情で友人たちを見渡している。
ソレは明るいのが苦手なのか、ピタリと足を止めた。
持ち上げていた腕がダラリと垂れ下がり、歩くのを止めると、ソレはまるでお化け屋敷に設置された人形のようだ。
それでも、ディスプレイされた人形ではないと、滴り落ちる液体と微かな呻き声が、現実なのだと、如実に物語っている。
「すごい音だったけど、何事…?」
雅臣の後ろから、少し遅れてやってきた瑞貴までもが不思議そうな表情で顔を覗かせた。
普段と変わらない、あまり抑揚のない声に、十夜は非現実的な光景から声の方に視線を向ける。
十夜の視線の先で、瑞貴は呆れたような、そこまでやらなくていいのにとでも言いたげな少しだけ困惑気味の表情を浮かべていた。
そこにある普段と変わらない様子の友人の姿を見るだけで、一瞬だけ今見たモノは白昼夢か幻だと思えるような気がする。
十夜と視線が合うと、瑞貴は何事?とでも問うように首を傾げて見せたが、生憎だが十夜はその問いに応えることが出来ない。
何せ最初にソレを認識した十夜自身が、まだソレを把握しきっていないからだ。
見た目そのものは、ホラー分野でよく見かけるアレだが、現実的に考えてアレがこんな場所で発生するなど、あり得ない。
瑞貴は無言で固まっている十夜の様子に訝しむような表情を浮かべると、他の友人たちへと視線を向ける。
そのまま、当然の流れで彼らの視線を追って自然な様子で部屋の中に視線を向けた。
「…ぇ…」
雅臣が持っている灯りのせいで、全容がハッキリと見えるソレを認識した瞬間、瑞貴の表情は驚愕を通り越して完全に恐怖の色に染まった。
絶望という言葉ですら生温いと思うような、筆舌に尽くし難い表情は、まるでこの世の終わりでも見たのかと思うほど、見る者の心を縛り付けるくらいに痛ましく哀しい。
「わ~っ!見ちゃダメです~!」
少し遅れてソレを認識したらしい雅臣が慌てて瑞貴の視界にソレが入らないようにしたのだが、たぶん完全に手遅れだ。
けれど、雅臣の慌てた声のお蔭で、十夜は少しだけ冷静さを取り戻すコトが出来た。
というよりも、自分が混乱している場合ではないと、一旦状況を棚上げにしたという方が正確だ。
「来いっ!」
逃げなければという意識よりも先に、逃がさなければという意識が働いた。
十夜は、条件反射で瑞貴の手を引くと、廊下へと無理やり連れだす。
驚くくらい抵抗のない相手に、十夜は舌打ちしたい心境だった。
見せてはいけないものを見せてしまったという思考が、脳裏を埋め尽くす。
「そのまま、上まで行けっ!雅臣、ソイツら連れて行けっ!」
すぐに赤也の鋭い声が飛んできて、同時に戦力外と判断された祐一の身体が廊下へと押し出される。
「ボクですか!?わ~!道わかんないですぅ~赤也さんか拓海さんがお願いします~っ」
先導役に指名された雅臣は素っ頓狂な声を上げると、持っていた灯りを無理やり拓海に押し付けた。
「おいっ!?」
押し付けられるままに受け取った拓海は、雅臣と灯りを交互に見たが、すぐに廊下へと飛び出す。
「仕方ない、とりあえず上に行こう。アレの動きは鈍そうだから、階段は登れないかもしれない」
状況判断能力はさすがで、拓海は即座にそう言うと万が一再びアレが動き出した時に戦力にならないどころか足手まとい以外の何でもない人間についてくるよう促した。
「考えるのは後だな。とりあえず行動するとしよう」
ホラーが得意なだけはあると褒めるべきか、祐一はグロテスクでスプラッタなアレを見ても、冷静さを失ってはいないようだ。
そんな友人たちの様子に励まされたことと、自身が動揺している場合ではないと優先事項を切り替えたことで問題を棚上げに出来た十夜は、自分も行動をしなければと頷いて見せる。
今、十夜にとっての最優先事項は、自分の混乱よりも、瑞貴のことだった。
「…上に戻るぞ…?」
十夜は自分に出来る可能な限り優しい声音でそう言って、部屋から連れ出した時のまま握っていた手をそっと引く。
俯いたまま微動だにしない相手を覗きこんで、行こうと優しく声をかける。
完全に思考を停止させたかのような、外界を遮断して内に閉じこもっているのではと思うほど大人し過ぎる様子に、少しでもこれ以上怖がらせてはいけないと、護らなければという気持ちが一層強くなっていく。
「…や…っ」
けれど、目が合った瞬間、思い切り手を振り払われ、完全に拒絶を示されてしまった。
瑞貴の目には、もしかすると友人たちですらバケモノに見えているのではないかと思うような、怯えきった様子に十夜は衝撃を受ける。
まさか、拒絶されるとは、思っていなかったからだ。
まるで人浚いにでも遭ったかのように、全身で拒絶された十夜は、再び手を伸ばすことが出来なかった。
「コラっ!オマエら、何してんだよ!さっさと行けって!」
部屋の中からは、追い立てるような赤也の声が響く。
「祐一、灯りを頼む」
いつまでもココに留まるワケにはいかないと、拓海は祐一に灯りを押し付けると固まっている十夜の肩に軽く手を置いた。
「考えるのも落ち込むのも、悪いが後だ」
十夜が何に衝撃を受けたのかをしっかりと理解している様子で言うと、拓海は瑞貴へと1歩近づく。
そのまま手を掴もうと伸ばした拓海の手を避けるように、瑞貴は1歩後ろへ下がったかと思えば、全身で警戒しているような、まるで怯えた子猫か何かかというような表情で拓海を窺った。
「…俺は護衛役なんだぞ…、といっても、恐らく今は解っていないのだろうな…」
その様子に、拓海は一応は危険人物ではないというアピールをして見せるが、全く効果がないことも理解しているらしく軽く溜息を零す。
「悪いが、今は時間をかけてやる余裕がない」
拓海は保護対象にそう断りを入れると、無理やり捕まえようと、まるで獲物を捕らえるような素早さで手を伸ばした。
拓海の手が、対象に触れようとした瞬間、ヒラリと身を躱したかと思えば伸ばした腕を逆に捕まえて、驚くべき正確さで地面に叩きつける。
「おいっ!どこに護衛を投げ飛ばす保護対象がいるんだっ」
さすがに受け身は取ったようだが、拓海は思わずといった様子で叫んでいた。
「何してるんですかぁ~っ!?」
ソコへ慌てた様子で廊下に飛び込んできたのは雅臣で、雅臣は投げ出された拓海と投げ飛ばした瑞貴を交互に見て困ったように悲鳴をあげる。
「拓海さんたちは先に行ってください~。瑞貴さんはボクが責任を持って連れていきますから、ほら、早く行ってください~」
何をやっているんだと、雅臣の割には珍しく友人たちに対して呆れた様子を見せた後、勝手に役割を決めて未だに立ち往生している友人たちを無理やり追い立てた。
「も~…瑞貴さんも、何やってるんですかぁ~…。大丈夫ですからね~?」
いつアレが襲い掛かってくるかもしれない状況だというのに、雅臣は普段と変わらない様子で瑞貴に近づいて行く。
驚くべきことに、普段通りすぎる雅臣の態度が功を奏したのか、今度は振りはらわれることはなかった。
雅臣は、瑞貴を庇うようにそっと抱きしめると、愛し子のように撫でて、小さく何かを呟いたように見える。
唇を読むのなら、おかえり、だ。
その様子に、少しだけでも落ち着かせることが出来たのかと、十夜はほっとしながらも僅かに心が痛むのを感じていた。
「とりあえず戦力外を安全な場所に置いたら、すぐ戻ってくる」
拓海はここで無駄な時間を浪費するわけにはいかないと判断したのだろう、雅臣にそう声を掛けると祐一から再び灯りを受け取って歩き始める。
走らないのは、当然ながら前方を警戒するのと同時に、自他ともに認める戦力外の2人のことを考えてだ。
焦るあまり走ったりしないくらいには、まだ辛うじて冷静でいられているのだろう。
もしかすると、自分が護らなければという責任感が、赤也や拓海に冷静な判断力を残したのかもしれない。
現に十夜は、功を奏してはいないものの、最優先事項のために自身が混乱するのを棚上げにしたのだ。
十夜は後ろ髪引かれる思いで、その場を後にした。
周囲を警戒しながら、確実に3階へと向かう。
何故3階かと言えば、寝室にしようと決めた場所にあらゆる荷物を置いてあるからだ。
もどかしい気持ちを抑え、こみあげてくる恐怖も何とか堪え、拠点と決めた部屋に着いた時には、早鐘のように打つ自分の心臓の音すら煩いと感じるくらいになっていた。
「…俺はこのままあいつらを迎えに戻るが、2人は部屋の外で音がしても、絶対にドアは開けるなよ?鍵さえ開けておいてくれれば、俺たちは自分たちで開けられるからな」
談話室に着くなり、すぐに左右の寝室やそこから続くシャワールームに何も潜んでいないのを確認した拓海は、重々しい口調でそう告げる。
「…何だと…?」
その言葉の意味するところを理解したくなくて、十夜は引き攣った表情で無意識に聞き返していた。
「幸い、最低限の食料はこの部屋に持ってきてある。場合によっては籠城になるが、何とかなるだろう」
拓海はそれだけ言うと、部屋を出ていく。
「…ドアを開けるなって…」
取り残された十夜は、パタンと閉まったドアを茫然と見つめ、独り言のように呟いた。
「…ホラーなどでよくある展開を示唆しているのだろうな。ドアを叩く音にうっかり開けると、さっきのようなヤツに襲われるかもしれないということだろうな」
どこまでも冷静な口調で、祐一は淡々と状況を分析するように十夜の言葉に応える。
「確かに俺たちは戦力にはならんが、ソレは友人を見捨てるってことだぞ!?」
十夜は条件反射で祐一に詰め寄ると、思い切り批難するように叫んでいた。
拓海の言葉は、ここに引きこもっていれば、最悪のケースでも肝試しを手配した学園側から救助が来るという希望的観測を踏まえた安全策だ。
それと同時に、自分たちがココに辿り着かなければ、諦めろという意味も含まれていた。
諦めるというのは、つまりそういうことだ。
「逆の立場で考えてみれば、解るのではないか…?」
諭すように、祐一は憂いを帯びた声で十夜に問いかける。
もし自分がある程度対処できる能力を有していたとして。
自分なら、どうするだろうか。
考えるまでもなかった。
つい先ほど、十夜は自分の中で最優先事項を自分の事から大事な相手の事へ切り替えたばかりではないか。
1人でアレを見て、恐らく平静を保てる人間は、いない。
平静を保てるとすれば、自分を保つための理由が、その人に存在するからだ。
例えば自分を犠牲にしてでも護りたいと思う相手がいるだとか。
自分が対処しなければ、全滅しかねないだとか。
要するに自分がしっかりしなければと思わせるだけの何かが存在しているから、無理やりにでも冷静であろうとするのだ。
戦力を冷静に分析して友人たちを先に逃がそうとした赤也だって、当然混乱していないわけでもなければ、ソレに全く恐怖を抱いていないわけではないだろう。
何時まで経っても移動しなかった友人たちに、懸案事項を請け負って行動するように叱責した雅臣だって同様だ。
それに、自分が保護を任された人間の保護を終え、友人たちの救援に戻った拓海もまた、同じだろう。
ただ全員が全員、自分に出来ることを精一杯冷静に考えた結果に過ぎない。
その結果、祐一に与えられたのは、十夜を窘める役と、絶望的状況でも受け入れる覚悟をするという立場なだけだ。
「…怒鳴って、悪かった…」
自分が1番何の役にも立っていないのだと、十夜は素直に謝罪を口にした。
いくらイレギュラーに慣れた集団とはいえ、こんなイレギュラーを想定していた人間など、存在するはずがない。
そんな中で、皆、必死に頑張っているだけだ。
「…いや、俺たちはせめて、皆が戻ってきた時に安心できるようにここを守ることとしよう」
祐一は、十夜の態度に苦笑し、そうなるのも仕方がないと言う風に笑ってみせた。
カチリカチリと乾いた時計の針の音だけが響く部屋は、拓海が置いて行った灯りのお蔭で場違いな程に明るく、手入れの行き届いた調度はさっきの光景など夢だったかのように平和だ。
1分がまるで1時間のように感じられる中、不安だけに支配されながらも、十夜は必死に耐えていた。
考えたくもない、もしかすると友人たちを…という思考は、どれだけ振り払っても浮かんでくる。
大切な者を再び失うかもしれないという恐怖が脳裏を過った時、無意識に再びと考えた自分に気付いて十夜は驚愕した。
自分は、一体、過去のいつどこで大切な誰かを失ったというのだろうか。
全く記憶にないのに。
一体どれだけの時間が経過しただろうか。
ひたすら恐怖と重圧に耐える部屋のドアがカチャリと小さく音を立てた。
ビクリと身体を震わせ、十夜と祐一は顔を見合わせて身構える。
もし、ドアノブが回らなければ。
そう考えると、先ほど見たアレの姿が思い出されて、心臓を鷲掴みにされる以上の恐怖がこみあげてくる。
息を潜め、ドアを見守る2人の前で、ドアノブがしっかりと回った。
それでも警戒したまま見守る中、ドアがゆっくりと開く。
十夜は反射的にきつく目を瞑ったが、すぐに恐る恐るといった様子で瞼を上げた。
「あー…焦ったー…」
ドアを開け、立っているのは赤也で、ほっと胸をなでおろしながら部屋の中へ入ってくる。
「…とりあえず2階のドアで閉鎖してきたし、3階の安全も確認はしたが…何だったんだ、アレは…」
その後に続いて、拓海も部屋の中に入ってくると、安心したように肩の力を抜いたように見えた。
「それを考えるのは後ですよ~。今の優先事項は、こっちです~」
最後に雅臣が瑞貴を抱きかかえた状態で入ってきたのを見て、十夜は一瞬だけ心臓が凍るような心境を味わったのだが、改めて見ると眠っているだけのようで、どこにも外傷はなさそうだ。
それを確認して、取りあえず最悪の自体は免れたのかと、一気に脱力する。
「…あー…せめてケータイが繋がればなぁ…」
全員が部屋の中に入ったのを確認し、赤也がドアを閉めながらそうやれやれとそう言った。
その言葉に、思い出したようにポケットからスマホを取り出した十夜の目に、圏外という非情な文字が映る。
「最悪、俺たちは学園側からの救助が来るまで、籠城でも何とかなるんだろうが…」
心底困った様子で拓海はそう言うと、チラリと雅臣が抱きかかえる瑞貴に視線を向けた。
「だよなぁ。やっぱ、可能な限り早急に病院に戻さないと、マズイだろうなぁ…」
赤也も同じように困り切った様子でそう言うと、八方手づまりだと言わんばかりに頭を抱える。
「外傷はないだろうが…。やはり、不味い状況か?」
友人たちのやりとりで状況を察したらしい祐一は、思案げな様子でそう問い返すと、確認のためなのか雅臣に近づくと意識のない瑞貴を覗きこんだ。
「たぶんな。アレ、見ちまっただろうからなぁ…」
確証はないが恐らくという様子で、赤也は深く溜息をついた。
「たぶんではなくて、確実だ。完全にダメだろうな。思い切り拒絶されてしまったからな…」
赤也の推測の言葉を全否定し、拓海は表情を暗くする。
拓海の言葉に、十夜は自分を拒絶した時の、怯えきった表情を思い出して胸が締め付けられる思いを再び味わった。
普段自分に向けられるのは、親愛の混じる穏やかな表情ばかりだ。
一体、あの時、瑞貴の見ていた世界には何が映っていたのだろうと、怖い目に遭わせてしまったことが悔しくて哀しくて、そして申し訳なくて、何だか泣きたい心境を通しこしてただ居た堪れなくなる。
「マジかぁ。…オレら、護衛失格だよなぁ…」
落ち込んだ様子で、赤也は頭を抱えながら床に崩れるように座り込んだ。
「…なんで雅臣だけ平気だったんだ?護衛役だと認識されてないのか…?」
十夜とは違った理由でショックを受けたらしく、拓海も落ち込んだ様子を隠せないようで、恨みがましいというわけではないが含みのある視線を雅臣に向ける。
「別にボクだけ平気だったんじゃないと思いますよ~。かなり混乱してたんだと思いますよ~?」
赤也と拓海、それから十夜が落ち込む様子を見て、雅臣は苦笑を浮かべるとそう言って首を振ってみせた。
「拒絶されなかったのは、雅臣だけではないのか?」
そもそも最初から手を出すこともせず傍観に徹していた祐一は、冷静に分析するようにそう首を傾げる。
試行していない赤也と祐一を除けば、確かに雅臣だけが唯一拒絶されることはなかったのが、あくまで客観的な事実だ。
「いえ、そもそもボクをボクだと認識してなかったと思いますよ~。誰かと間違えてたんだと思います~。誰かの名前らしきことを言った後、ごめんなさいって言ってましたから~。その後、急に意識を失っちゃいました~」
だから、別にボクだけが拒絶されなかったんじゃないですと、雅臣は何があったのかをそう解説した。
実際にその光景を見ていない十夜や祐一は、あの後そんなことがあったのかと思うしか出来ない。
「名前?」
鸚鵡返しに祐一は聞き返しながら、ますます不可解だと言いたげに表情を険しくする。
「はい~、聞き間違いじゃなければ、レヴィって言ったんですけど~。でも、日本人の名前っぽくないので、犬か何かですかねぇ~」
雅臣は雅臣で、要するに理解出来ていないらしく、困ったように笑うだけだ。
雅臣の通常運転と言えば通常運転なのだが、謝罪の言葉があった時点で、日本人の名前っぽくないという感想はともかく、犬という発想はまずあり得ないはずなのに、何故それを可能性に挙げられるのだろうかと友人たちは一気に脱力した。
この場合は結果的に良い意味で、緊張が解れたというところだろう。
いくら封鎖してきたとはいえ、いつドアの向こうからアレがやってくるとも知れないのではないかと、知らず知らずのうちに身構えていた彼らだが、恐らくはアレにドアを開ける知能は存在していないはずだ。
ドアが叩かれるような事態になれば危険なのだろうが、内側から鍵もかけられる上にそもそも階下と隔離して安全確認をしてからこの部屋に集合したのだから、現状での危険は限りなく低いと言えるだろう。
「…ええと、さすがにこのままじゃどうかと思うので、ボク、隣で看てますね~。何かあったら呼んでください~」
一気に脱力した空気を敏感に感じ取ったのか、雅臣はそそくさとまるで逃げるように隣のベッドルームに引っ込んでしまう。
確かに意識のない人間をいつまでも抱きかかえているよりは、素直に寝かせておく方が良いだろうし、ついでに経過を観察しなければいけない状況だけに間違っていないのだが、緊迫した状況なのにも関わらず、逃げたなと苦笑したくなるような軽妙な空気が流れた。
「…出来ることなら、救助が来るまで目を覚まさない方が本人のためだろうな…」
ポツリと、赤也は雅臣と瑞貴が消えたベッドルームのドアに視線を向けて呟く。
「よりにもよって、1番見せてはいけない物を見せてしまったからな…」
深い溜息と共に、拓海はそう言って視線を床に落とした。
見せてはいけないもの。
その言葉に、十夜はあの時、自分が悲鳴さえ上げなければ、と唇を噛んだ。
そうすれば、自分は危険な目に遭ったかもしれないが、他の友人たちを呼び寄せることはなかったかもしれない。
1階にいた赤也と拓海にはガラスが割れる音は聴こえたかもしれないが、少なくとも3階にいたはずの瑞貴にまでそれが聴こえることはなかったはずだ。
詳細な理由は教えられてはいないが、子供の頃に事件に巻き込まれた瑞貴は、赤い色、特に赤い液体と火に対して凄まじい恐怖を感じるようになったらしい。
少なくとも数年前までは、日常生活にすら支障を来すレベルだったと聞かされていたために、今までは可能な限りそれらから遠ざけてきたのだが、今回ばかりは瞬時に対処できるほど冷静さを残した人間が存在しなかった。
その結果として、明るく照らし出された、赤黒い血を滴らせたナニカを見せてしまったというのは、どうしようもなかったとはいえ、深い後悔の念に苛まれる。
「……『アレ』を…ゾンビのようなモノを見て、正気を保てる人間はそう多くないと思うがな。哀しい事に、俺たちは他の人間が先に壊れてくれたことで、義務感から正気を保てているという状況だろうな」
あくまで冷静に分析してみせる祐一だが、彼なりにギリギリのところで平静を保とうとした結果、そうなっているのだろう。
普段の祐一らしからぬ冷たい言い様だが、状況は確かにその通りなので責める人間はいなかった。
十夜にしても赤也にしても、普段ならそんな言い方はないと言い返すような内容ではあったのだが、本当に、言葉は酷いがその通りなので反論の余地がないのだ。
「学園側も…いくらなんでもやりすぎだと思わなかったのか…」
アレが仕込みだとは到底思えないのだが、そうであったらいいという希望を込めて十夜は笑い飛ばそうとして失敗した。
表情を引き攣らせるだけで、笑みの形を作ることが出来なかったのだ。
「…仕込みなら、いくらか救われるんだけどな…」
1番長い時間対峙することになった赤也は、彼にしては珍しく暗い翳のある笑みを見せる。
アレを見た人間なら、ただの特殊メイクなどでは説明が出来ない、正真正銘ああいうモノなのだと本能的に理解出来てしまう。
だから、誰も続けて言葉を発することが出来なかった。
知性の感じられない本能的な動き、ただの衝動から漏れる呻き声、感覚が存在していないのか、全身に傷があろうがガラスの破片を素足で踏みつけようが、何かが刺さって血が流れていようが一向に気にする様子がない。
まるでソレは統一された単一の目的のためだけに生きた人間を目指して進んでいるだけのようで、滑稽でありシュールであり、そして哀しくて恐ろしい存在だ。
皮膚は変質してボロボロの土気色、眼窩は落ちくぼみ焦点はあっておらず、髪はバサバサと乱れ、半開きの口からは涎とも体液ともつかない粘液が滴り落ち、移動の過程で衣服としての役割を果たさなくなった布の残骸が張り付き、衣服をボロ布に変える間に付いただろう無数の傷からは血が滲みあるいは流れ続け、既に埋葬されたはずの死体が何らかの方法で操られていると言われても納得出来るくらいに不気味でグロテスクなソレは、けれども死体ではなかった。
死体ならば、動かない。
死体ならば、血を流さない。
死体ならば、口を開けて獲物を前に涎など垂らさない。
死体ならば…生を終えているのならば、完全に全機能が停止しているはずだ。
死後間もないというのであれば血くらい流れるだろうという言葉は、哀しいくらい何の慰めにもならなかった。
土気色に変色した皮膚も、焦点の合わない目も、痛覚を感じていない様も、間違いなく死体の特徴で、見た目だけなら死体に見えるソレが、死後間もないワケがない。
死後間もない死体ならば、まだもう少し人間らしい色をしているハズだ。
見た目に恐怖を感じ、本能的にアレはもうヒトではないと理解は出来るが、殺すことはさすがに躊躇われた。
アレは、たぶん、ヒトだ。
だから、逃げるしかなかったのだが、その結果、ソレはまだ生きて、この洋館のどこかに在る。
「…せめてもの救いは、最近のゲームや映画に出てくるゾンビのように走ったり武器を持ったり知性を感じさせる行動を取らないところではあるな…」
既に祐一の中では、アレの呼称はゾンビで固定されたらしく、一人考え込むようにしながら呟いた。
確かにもっとも近いモノを挙げろと言われたら他に適切な単語はないというくらいだが、ゾンビとはあくまで生ける屍が定義であり、つまりアレが完全な死者だと断定できない以上はゾンビという呼称は不適切だ。
そもそもそんなものはフィクションの中だけに起こる話であり、研究者の言うゾンビ化とは死後蘇った死体などではなく、コミュニティの中の異端者に、コミュニティの中で制裁を加えるための行為であり、この場合の死者とは生物的なものではなく、コミュニティでの保護と権利を奪われる、つまりコミュニティに於いての死者として扱われることでであると言われている。
そういう意味では、明確にアレをゾンビと呼称して良いものではないと、当然発言者の祐一は理解しているのだろうが、他に適切にアレを呼称出来る単語が存在しないことも事実だった。
「最近のゾンビってそんなスゲーのか…。アレが旧式じゃなかったら、間違いなく全滅してたな…」
人間、一定以上の恐怖や処理不能な状況に追い込まれると笑うしかないと言うが、まさに今の彼らがその状態で、赤也は乾いた笑いを浮かべながら友人たちを見渡す。
「そもそもアレは襲い掛かってこなかったし、もしかすると何か抑止になるような思考があったのかもしれないぞ」
アレ相手にまともな議論をしても仕方がないだろうが、拓海は拓海なりに状況把握に努めようと1階での光景を思い起こしているようだ。
「そう考えれば、あのゾンビはもしかすると俺たちを襲いに来たのではなく、普通の人間だった頃の記憶に触発されて洋館を訪れただけかもしれんしな…」
他のメンバーよりは幾分ゾンビというホラーの1ジャンルに詳しい祐一は、考え込むような様子のままそう分析した。
「そんな事があり得るのか…?」
十夜の知るゾンビというのは、ゲームや映画化されたバイオハザードシリーズ初期のゾンビ程度のもので、あくまで人に襲い掛かって次々にゾンビ感染者を殖やしていくイメージしかなかったために、普通の人間だった頃の記憶云々という言葉に首を傾げる。
「ああ。以前、ゾンビ視点のB級ホラーを見たことがあってな。そのゾンビはゾンビ化していく過程で徐々に人間性が失われていき、痛覚などが遮断され思考能力が低下していくにつれて運動能力も鈍くなっていってな。いくらリミッターが外れ最初から火事場の馬鹿力状態であろうが複数で襲い掛かれば簡単に倒せるゾンビに成り下がったのだが、それでも最後まで人間だった頃の記憶が残っていて、物語の終わりに自宅に帰り着くという話だったぞ」
まさにそのゾンビに近いのではないかと祐一が過去に見たゾンビ映画の内容を説明した。
もしアレが洋館に関係する人間だったとすれば、確かにその映画のゾンビとやらが1番近く思えなくもない。
その説明に、全員が再び無言になった。
もしその説がアレに適用されるなら、間違いなくアレは元々は普通の人間だ。
その変容ぶりに、なれの果てというべき憐れな姿に、哀しみでも同情でもない、名前の付けられない悲痛な感情が浮かぶ。
そして、もし、逃げることに失敗すれば、自分たちもまたそうなるのだと、否応なしに考えさせられてしまう。
それは言いようのない恐怖でしかなく、背筋が凍るようなレベルではなく、本能的な恐怖と嫌悪、思考停止に陥りかねない、考えたくもない堂々巡りへと続く。
「…なぁ。今からさ、寝て、起きて、朝になって。そしたら全部夢で、ガラスも元通りで…なんて、流石にないよな」
そうであればどれだけ倖せかという想いを込めて、十夜はあり得ないと解っていながらもそう呟いた。
口元に刻まれるのは、絶望と自嘲の入り混じった微かな笑みだ。
「そうだったら、イイんだけどな…」
苦笑を浮かべ、拓海はそう言って視線を先ほど雅臣と瑞貴が消えて行ったベッドルームのドアへ向けた。
言葉には出さなくても、皆、同じことを考えているのだ。
アレが現実だろうが夢だろうが、学園の仕込みだろうがそうでなかろうが、何であっても、少なくとも瑞貴にとっては無かった事であればどれだけいいだろうか、と。
自分たちは、まだ、ドッキリでしたという看板が出てきたら、怒りながらも安堵し、それで日常に戻れる。
何て上手い特殊メイクだ、ハリウッドででも仕事に困らないだろう、と笑い飛ばすことも、できる。
けれど、尋常ではない恐怖の感情を引き出されてしまった瑞貴だけは、たぶん無理だ。
そう思うと、居た堪れないを通り越し、いっそ全てが夢で在ればいいと願ってしまう。
「…今日はさ、もう考えるのは止めようぜ。それこそ、寝て、起きて、それから考えよう。全員で寝たら寝てる間にって思って寝れないだろうからさ、順番にこの部屋で待機でさ。1人じゃアレだったら、2人ずつでさ」
赤也は思考も気持ちも切り替えるように、明るく笑って見せた。
嫌だ、怖い、とただ泣き叫んで、考える事を放棄して、そうしてその先に待つのは、甘い夢の中での甘美な永遠、幻想の中でのみ生きながらえ、そして現実世界からは葬られる。
要するに、現実を受け入れないまま、死を迎えるということだ。
だから、彼らはそうはしなかった。
「そうだな…。じゃあ、戦力の都合で俺と赤也が交互の方がいいだろう。万が一、閉鎖したドアを突破してきたとしても、水際で撃退すれば済む話だ」
廊下へ続くドアを睨むように見ると、拓海はそう言って長期的な方針はともかく目先の行動指針を決める。
「ならば、ホラー担当の俺が先に見張り側に残ろう。思いつく限りの対処法を挙げておけば、この先、仮にアレが本当にゾンビだとしても、何等かの対処は出来るはずだからな」
即座に自身の役割を決め、祐一がそう言って荷物の中から筆記用具を探し出した。
アレが本当にゾンビなのかはさておき、一定の役には立つだろうと持っているホラー知識を総動員するらしい。
こういう時、切り替えの早さが羨ましいと、自らの役割を考えて行動に移す友人たちを眩しく感じながら、十夜はただ流されるままにベッドルームへ追いやられる。
数時間が経過すれば起こしに来ると言われ、そのまま押し込められてしまい、まさかこの状況下で1人にされるのかと思えば、赤也も一緒にベッドルームへと引きこもった。
どうやら、作戦会議には、赤也よりも冷静な拓海の方がはかどるだろうという人選らしい。
肝試しの時に使用した小さな懐中電灯を手にベッドルームにやってきた赤也は、まるで心配する必要などないと言いたげにあっさりとベッドの上に転がった。
「うわ、すげぇ、超イイ弾力!」
ベッドの柔らかさと、スプリングに感動するような、明るい声を上げて赤也はベッドを何度か叩いて笑う。
「…暢気だな…」
今にも廊下の向こうからアレがやってくるかもしれない状況なのに、警戒しているように見えない赤也を見て十夜はやれやれとため息をついた。
まるであの光景は自分だけが見た白昼夢か何かだったのかと思うほど、友人の様子は普段通りに見える。
「隣には2人がいるし、そもそも今のところドアさえ死守すれば安全だろ?だったら、今出来るのはちゃんと休むコトだけじゃん」
自分に今出来ることはそれだけだと、赤也は明るく言うとそのままベッドの上で目を閉じた。
「……そう、だな…。おやすみ」
そう言って十夜も同じように横になるが、素直に眠れるわけもない。
視線の先には外開きの窓があり、そこからいつの間にか顔を覗かせた月が見えた。
どうしてこんなことになったのだろうか。
自分たちはただ、仲の良い友人たちで、学園からの良く分からない課題とはいえ肝試しにやってきただけだというのに。
窓から見える切り取られた夜空は平和そのもので、横たわるベッドは柔らかくて、本当にさっきの出来事が嘘だったかのような静寂に包まれている。
それでも到底寝付くことなど出来ず、かと言って赤也に声を掛ける事も躊躇われ、十夜はただ無心になるように自分に言い聞かせながら目を閉じた。
不思議なことに、目を閉じて浮かんでくる光景は、アレの悍ましい姿ではなく、大事な存在の恐怖に染まった表情で、自分がもっとしっかりしていればという後悔が浮かんでくる。
眠れずに唇を噛みながら自身の負の感情に耐えていた十夜の耳に、ふと涼やかなピアノの音色が聴こえて来た。
奏でられている曲は、ジムノペディ。
どこか悲しげに切ない音で響くその音色は、それでいて聴くものに安心感を与える深さも持ち合わせており、生の演奏でしか出しえない旋律。
あぁ、自分は既に夢の中なのかと、十夜は演奏に浸りながら考えていた。
こんな場所で、生のピアノの旋律が響くはずもない。
それに、十夜の知る限り、この優しげで温かな音色を出せるのは、自分の想い人か、その人にピアノを教えた人だけだ。
夢の中でまで、自分はその存在に護られているのかと思うと、何とも情けない話だと自嘲する。
どちらかと言えば、自分がその相手を護る側で在りたかったはずなのだが、叶うのはいつだろうか。
細いようで弱くなく、哀しく切ない旋律なのに温かく、まるで子守唄のように響く音色。
その音色にすべてを委ねているうちに、何時しか十夜は本当に眠っていた。
悪夢に苛まれることもなく、穏やかな眠りが朝の訪れまで安らぎの時間の中で微睡む。
自分が何時しか眠っていて、見張り役の交代のために起こされるはずだったのにも関わらず、朝まで眠っていたのだということに気付いたのは、窓から差し込む白く靄のかかった光が差し込んでからだった。
「…!?」
状況を飲み込んだ瞬間、驚いて一気に覚醒するくらい、熟睡していた自分に驚いた十夜は慌てて飛び起きて周囲を見渡す。
既に部屋は蛻の殻で、談話室へと続くドアが微かに空いている。
その向こうからは、何の音も聞こえてはこない。
まさか、自分が眠っている間に何かあったのかと一瞬考えるが、それならば自分が無事だということに説明がつかなかった。
恐る恐るドアに手を掛け、そっと覗きこむ。
「…何をしているんだ…貴様らは…」
ドアの向こうでテーブルを挟み、何やら真剣に考え込んでいる様子の赤也と拓海を見つけるなり、安心して無意識に呆れた声が零れ落ちる。
「お、起きたか。おはよー十夜。っても、もう9時回ってるけどな」
十夜の姿を見つめるなり、赤也がテーブルから顔を上げて明るい笑顔を見せた。
「もうおそようの時間だぞ。ちゃんと眠れたようで何よりだ」
苦笑しながらそう言うと、拓海も十夜を振り返る。
その2人の様子を見る限り、何事も無かったかのように見えるのだが、それは恐らく十夜の希望的観測に過ぎないだろう。
「…2人だけか…?」
他の友人たちはどうしただろうかと、十夜は軽く首を傾げた。
この2人が普段通りであるならば、少なくとも友人たちに深刻な何かが発生したとは考えにくいので、一応一安心というところだ。
「あぁ、祐一と雅臣なら、さっき隣のキッチンに送って行ったけど」
赤也はくいっと親指で廊下へ続くドアを指し、あっさりとそんなことを言った。
「この部屋の外に出たのか!?」
まさかこの部屋から廊下に出たのかという予想外の内容に、十夜は思わず大きな声で叫ぶ。
昨日の出来事が夢や幻ならば構わないが、それは危険ではないのかと怒鳴りつける。
いや、本当に自分が夢を見ていただけなのだろうかと、ほんの一瞬だけ考えはしたが、高校生にもなってそんな白昼夢など見るわけもない。
「封鎖が破られた形跡もなく、上がってもこないなら、とりあえずは安全だと判断してな」
それに、一般的なホラーのゾンビは夜行性だと、拓海はテーブルの上から1冊のノートを取り上げた。
それは昨夜、祐一がどこかから取り出した筆記用具と一緒にあったノートで、恐らく思いつく限りのゾンビについての情報が記載されているのだろう。
「…だからと言って…戦力外だけで行かせたのか…?」
赤也と拓海の2人が談話室に残っていることに、十夜は訝しむような視線を向けた。
「あー…いや、ソレがな…別の問題が浮上してな…。まぁ、結果的には良かったんだろうけどさ…」
だから自分たちはこの場所で頭を抱えていたのだと言わんばかりに、赤也が言葉を濁す。
別の問題と言いながら、結果的には良かったとは、一体どういうことなのかと十夜はますます不可解で、自分だけが取り残されたような心境で眉根を寄せる。
「一目瞭然ではあるんだが…さて、どう説明したものか」
見れば解ると言いながらも、拓海は説明する言葉を探すように困ったような表情を浮かべた。
言葉ではそう言いながら、昨夜、この場所に全員で逃げ込んだ時よりも幾分か明るく落ち着いた表情に見えるのは、一夜明けて少し落ち着いたからなのだろうか。
そんなことを考えていると、何の前触れもなくガチャリとドアノブが回る音がして、十夜は一瞬だけ身構えた。
ドアが開く瞬間、十夜は思わずドアの隙間を凝視する。
「…あれ、起きてる。おはよう、よく眠れた?」
部屋の外からドアを開けた人物は、十夜の顔を見るなりそう言って柔らかな微笑みを浮かべていた。
立っていたのは、見間違いようもなく瑞貴なのだが、昨日の様子とあまりにも違う気がして十夜は目を瞬かせながらじっと観察するように上から下までその姿を見る。
「え?何…?どうしたの?…あ、まさか、この恰好が似合わない…?」
視線を向けられた方はと言えば、軽く首を傾げた後、何かに思い至ったように自分の恰好を見下ろした。
十夜は、瑞貴自身に言われて初めて気づいたが、確かにエプロン姿など、今までに1度も見たことがない上に、似合わないわけではなくむしろ似合うけれどそういうことではないと、状況に全くついて行けずにただただ混乱するばかりだ。
やはり、昨夜の出来事は自分の見間違いで、本当は何もなかったのだろうか。
しかし、先ほど封鎖がどうのと言っていたので、やはりアレは夢ではなかったはずなのだが、と十夜はまとまらない思考のままその場に固まるしか出来なかった。
「用意出来たのか?というか、ケガとかしてないだろうな」
固まる十夜の代わりに、部屋へ現れた瑞貴に普段通りの様子で話しかけたのは拓海で、そのまま瑞貴に近づくといつものように撫でるように髪を梳く。
「包丁は触らせてもらってないし、怪我のしようがないと思わない…?向こうに準備出来たから、呼びに来たんだよ」
瑞貴は少しだけ可笑しそうに笑ってみせると、そう言って部屋の中にいた3人を手招いた。
「サンキュ。あー、でも部屋の戸締りどうすっかな。ほら、貴重品とか、置きっぱなしになるじゃん?」
内側から鍵がかけられるが、外に出てしまえば施錠用の鍵が必要だと、赤也が苦笑しながら立ちあがる。
「戸締り…?あ…ちょっと待っててね…?」
赤也の言葉に、瑞貴は小さく首を傾げた後、十夜が出て来たベッドルームとは逆の、昨日雅臣が瑞貴を連れて消えた方のベッドルームへと姿を消した。
「……どういうことだ…?」
瑞貴の様子があまりにもいつも通りで、むしろいつもより少しばかり明るいような気がして、十夜は訳が分からないと首を捻る。
確かに、瑞貴はアレを見たハズだ。
そして、十夜は、今笑っていたあの顔が確かに恐怖に歪むその瞬間を見たハズだ。
「…ぁー…。たぶん薬の副作用なんだろうが、何も覚えてないんだと。肝試しをするって言ってこの部屋に来た後、目を覚ますまでの一切の記憶がないらしい」
赤也は十夜に近づくと、こそっと声を落として間違ってもベッドルームに消えた瑞貴には聞こえないようにという様子で小さく耳打ちした。
「…は…?」
その言葉に、十夜は思わず間抜けな声をあげる。
覚えていない?
アレを…?
それはつまり、怖いモノを見た記憶がない…?
良かったのか悪かったのか、いや、確実に良かったんだろうが、一体どういう原理なのだろうと十夜は頭を悩ませた。
「まぁ、正確にどこからどこまでを覚えていないのかは、まだ確認してないけどさ…。あの様子じゃ、まず何も覚えてないんじゃないか…?」
拍子抜けだと言わんばかりに、赤也はわざとらしく肩を竦めて見せる。
1番、あの恐怖の光景から遠ざけなければいけなかったと、全員が後悔したというのに。
当の本人は何も覚えていないというのは、不幸中の幸いではあるのだが、それにしても何という偶然だろうか、今回ばかりは薬が未調整だったことに感謝するべきだろうかと十夜は混乱した頭のまま考える。
「…鍵、あったけど。たぶん、コレじゃない?」
ベッドルームから戻ってきた瑞貴は、手にキラリと光る物を持っていた。
確かに鍵の形状をしているし、ベッドルームにあったのだからこの部屋の鍵である可能性は高いのだろうが、いつの間にそんなものを見つけたのだろうか。
「試してみよう。それじゃ、あまり待たせると祐一と雅臣に怒られるからな。ほら、行くぞ」
瑞貴から鍵を受け取り、拓海がそう言って部屋の外に出るように促した。
本当に安全なのかという疑問は、瑞貴がごく普通に廊下から現れたのだから、確かめるまでもなく安全なのだろう。
談話室から廊下に出る際、十夜はまったく警戒しなかったと言えば嘘になるというくらい、少しだけドアから出るのに勇気を必要とした。
けれど、いざ廊下に出てしまえば、荒れた様子もなければ何かの気配もなく、友人たちについてダイニングルームへと向かう間に安全なのだと理解する。
談話室の鍵は、本当に瑞貴が持ってきた鍵で合っていたので、そのままきっちりと施錠された。
この洋館の、少なくとも3階には他に誰も、いや何もいないと調べていても、鍵をかけるだけでドアが破られていない限り安全だと断定できるのが精神的に安心できる。
ダイニングルームへ辿り着けば、昨日同様に元々この洋館にあったらしい食器類などを活用して並べられた料理などが並んでいた。
「…こんな食材、用意してたのか…」
思わず十夜が目を瞬かせるような、アウトドアを想定していたはずなのに欠片もアウトドア向きとは思えないくらい洋館の雰囲気に合った料理が並んでいて、驚けばいいのか呆れればいいのか十夜は反応に困ってしまう。
並んでいるのは、ふわふわのスパニッシュ風オムレツにパンケーキ、サラダとカリカリに焼かれたベーコンがプレートに並べられ、更にはコンソメスープまで添えられている。
一体ドコのホテルの朝食メニューだろうかと思うが、そもそも限られた食材と調理器具だけでよくここまで出来たと感心する。
本来ならバケットや食パン、もしくはクロワッサンだろうというところがパンケーキなのは、オーブンがないからだろう。
「ボク、個人的に朝は和食派なんですけど~あまりにも洋館に合わないので洋食にしてみました~」
能天気に笑いながら、雅臣は十夜の呟きにズレた言葉を返す。
豪華な食卓だが、彩りに違和感を覚えてよくよく観察すれば、サラダなどにほぼ必ずといっていいほど添えてあるトマトが存在していないことに気付く。
もっとも、その色は普段から学園で彼らが揃って遠足紛いの昼食を楽しんでいる時から存在していない。
アレを見た後にあの赤い色は避けたいと誰もが思うはずという以前の問題で、瑞貴には見せてはいけないものなのだから、存在しないのは当然なのだが。
「野菜などはいくらクーラーボックスに入れておいてもすぐに駄目になるからな。さっさと使い切ってしまおうという事情もあるしな」
祐一は見た目に豪勢な食卓の事情を明かし、そういう理由だと肩を竦めてみせる。
「やっぱ、朝でもちょっと薄暗いんだな」
いつも通り給仕が趣味なのかと思うほど甲斐甲斐しく世話を焼く雅臣以外の全員が席についたところで、赤也が苦笑交じりにそう言った。
元々、ダイニングテーブルの上には蝋燭を模した照明器具が置かれており、天上からもシャンデリアが吊り下げられている。
バルコニーに続く大きな窓は存在するが、部屋全体を明るくする程の光は射し込まないようだ。
「かといって電池の問題もあるから昼間から灯りを点けるわけにもいかないからな」
仕方ないと、祐一が言外にいつまでここに留まるかわからないのだから、節約が必要だと匂わせる。
少なくとも階下の安全が確認できるまで、3階より下に降りるには勇気以上の何かが必要だということだ。
「慣れたらそうでもないんだけど、暗い?」
小さく首を傾げてそう言ったかと思えば、瑞貴はそっと席を立って壁の方へと歩いて行った。
その先には、部屋の灯りのスイッチがある。
「…点くわけないだろ…」
ライフラインは止まっているのだから、スイッチを弄ったところで電気が通っていないのに灯りが点くはずもないと十夜は呆れた声を上げた。
「物は試しって言うじゃない?」
瑞貴は十夜を振り返り、悪戯っぽく笑って見せると、パチリとスイッチを操作する。
それで点いたら苦労はしないという思考で見守る中、部屋が急に明るくなった。
「…おい、何で点くんだよ」
ダイニングテーブルの上のライトまで点いたことで、確かに薄暗さを感じることはなくなったが、何故点くのかと十夜は一気に脱力する。
ライフラインは止まっているのではなかっただろうか、そもそも電気が通っているのなら昨日からあんな暗い中で作業をせずとも良かったのではないかと苛立ちに似た感情が沸々と浮かび上がった。
「…何でも試してみるものだよね」
電気が通っていることに驚いた様子も見せず、瑞貴はあっさりとそう言って席に戻っていく。
普段から後先を考えているようには見えない突飛な行動の多い瑞貴なので、今更その程度でいちいち怒鳴っていては身が持たないと十夜は経験則で知ってはいるものの、どうせ試すなら何故昨日のうちに試さなかっただの、色々と言いたい事は浮かんでくる。
「何で少しも驚かないんだ!貴様は!」
十夜の脳裏に色々浮かんできた中で、1番言いたいのは、その一言だった。
「まぁまぁ、十夜さん、落ち着いてください~」
雅臣も欠片も驚いた様子も見せず、灯りが点いたのが当然であるかのようにへらりと笑っている。
「電気だけではないぞ。水道もガスも生きていた」
さらに怒鳴ろうとした十夜を制し、祐一があっさりとそう暴露した。
「…マジ?」
流石にその内容には驚いたらしく、赤也が食事の手を止め何度も目を瞬かせている。
「朝食の準備中に試した奴がいるからな…。全部使用出来た時には驚いたぞ。使うべきか悩むが、冷蔵庫も機能しているようだしな」
祐一はしれっと既に知っていた内容を重ねて暴露する。
「…試したって…もしかしなくても…」
祐一の言葉に納得した様子を見せながらも、苦笑を浮かべた拓海は視線を瑞貴に向けた。
試す前に躊躇しろと普段から言っている相手は、瑞貴以外にはいない。
やってみて不具合があれば修正すれば良いと思っていそうなくらい、普通は少し考えるようなところで勢いに任せて行動するのは、赤也だと思われがちだし基本的にはそうなのだが、その赤也ですら一瞬躊躇うところを実にあっさりと飛び越えて実行してしまうのが実は瑞貴だった。
考えた末の行動なのだそうだが、常人を遥かに凌ぐ思考の回転速度のせいで、あたかも何も考えていないように見えてしまうため、瑞貴を取り巻く友人たちはいつも慌てて止めに走ったり事後に苦言を呈したりするのだが、本人的にはきちんとした根拠があっての行動であるため、改善される傾向はまるでない。
せめて先に説明して欲しいと懇願したこともあったが、赤信号を渡ろうとする子供を止める時、危険だからと切々と事情を説明してから手を引く人間がいるのか、むしろ先に手を引いて安全を確保してから叱るのではないのかと正論で返されて以来、先に説明を求めるのを諦めたのだった。
一応、本当に危険はないと判断出来なければ行動しないと言質を取っているので、それを信じるしかないというのが悲しいところだ。
「ソレはさて置き、今後の事を考えようぜ」
今更言っても仕方がないし、結果的にライフラインが生きていると解ったのは確かに有益だと、赤也が話題を強引に変える。
いつものようにどうしてそういうことをしたのかと問うたところで、瑞貴には結果オーライなのだから問題ないと言われてしまうだけだ。
そもそも試しにスイッチを入れただけで爆発するわけでもなし、危険があることを試したのではないのだから、何か問題があるワケでもない。
その言葉に誰も異論がなかったため、朝食の時間の話題はどうやってこの洋館から肝試しのレポートを携え学園まで帰り着くかという内容になった。
当然、階下に待ち構えている可能性のあるアレについての話題も微妙に含まれるのだが、上手に暈してというよりもアレを連想させる単語は一切使われない。
改めて確認してみれば、瑞貴は本当に談話室へ移動した後の記憶がかなり曖昧で、1階に降りた記憶は欠片も残っていないらしく、まさしく不幸中の幸いなのだが、逆にとても言葉を選んで会話することとなってしまった。
薬の副作用で忘れているというだけなら、万が一想起させる単語から思い出してしまうかもしれないという理由が主ではあるが、極力思い出したくない光景なのはアレを見た記憶のある全員に共通するところだ。
そうして談笑に混ぜながらも階下に隔離したアレをどうやり過ごすかと検討しあったものの、これといった打開策は浮かばなかった。
アレが外から来たので反対の室内奥深くへ逃げたが、どうにかやり過ごして外へ逃げれていれば、今頃は安全な学園付近だったかもしれないというのは、状況を理解している全員が考えたことではあったが、あんな突発的な状況では逃げるだけで精一杯で仕方ない。
朝の食事風景を終え、片付けも終えて再び談話室へと移動した彼らは、改めて持ち物を検証しつつ、外までの道のりが安全かを確認することを今日の目的とした。
仮にアレが昨夜見かけた1体だけだとすれば、さほど有害ではない。
動きも鈍ければ襲い掛かってくる様子もなく、警戒さえしていればすり抜けて外に出る事も可能かもしれない。
しかし、もしも1体だけでない場合や、実は夜行性でなく昨夜のアレは動きが鈍っていたと仮定したならば話は別である。
その確認のためにも、早急に階下の確認もしなければならないが、万が一アレが襲い掛かってきた場合、身を護るための武器になるものも必要だ。
「じゃあ…3階で何かいいものがないか探すってことで」
大まかな昼までにやることリストを作り上げ、赤也が号令をかける。
結局、絶対に2階との階段には近づかないということで、2組に分かれて3階を散策するという流れになった。
拠点としている談話室が大体廊下の中央付近に位置するため、それぞれ逆を見に行くというところでひと段落する。
当然のように階段側は赤也と拓海が向かうと言い出し、それに祐一が追従したために自動的に2組が出来上がった。
万が一にもアレの痕跡があった場合、せっかく遭遇した記憶を無くしている瑞貴が階下に近づくことがないようにということなのだが、必然的に十夜もそちら側に残されたことで、危険な方へ向かう友人たちには申し訳ないと思うのだが、ほんの少しだけほっとしたのも事実だ。
自分が見たくないとのと、大事な相手に見せたくないのと、割合で言えば後者の比重が高いのは事実だが、それでも前者が全くないワケではない。
そして探索が始まってから、10分。
恐る恐る廊下に並ぶ部屋のドアを開けようと試みているものの、未だに開くドアがなく廊下のほぼ突き当りに到達した。
「鍵かかってましたし、こじ開けちゃまずいですよね~」
開けられるドアが1つもないまま探索箇所の終わりまで到達した瞬間、雅臣がそう言って十夜と瑞貴を振り返る。
雅臣にとって瑞貴は保護対象扱いだし、十夜は自分よりも戦力的に劣るという考えなのだろう、珍しく率先して前を進んでいた。
廊下の突き当りは、台の上に大きな花瓶が乗せられていて、造花が豪勢に飾り立てられているだけで、あとは壁だ。
隣の部屋のドアからかなり離れているのに、壁しかないことに疑問を覚えるが、そもそも隣の部屋のドアは開かないので中の全容が解るはずもなく、だだっ広い部屋なのかもしれないと推測出来る程度でしかなかった。
「…成果なしか?」
確認するまでもなくどの部屋にも入れない上に突き当りは壁なのだから、何もないと十夜はやれやれと肩を竦めて見せる。
万が一どこかのドアが開いて、その中にアレが待ち構えているという可能性もゼロではないと思っていたので、開かないことそのものは別に構わないのだが、それはあくまでもそれが内側からも同様であるならの話だ。
それに、アレをどうにかすべく対処するための道具を探すという意味では、何の成果もないというのは問題だろう。
「…成果、欲しいの?」
瑞貴が不思議そうに首を傾げて十夜の顔を覗きこんだ。
何の成果を求めているのか、恐らく1番理解していないはずなのだから不思議の思うのも仕方ないというのが十夜の心境ではあるが、果たしてここで成果が欲しいと言うのはどうなんだろうと言葉に窮する。
「戻りますか~?」
成果がなくても別に気にならないのか、雅臣は大きな花瓶の前でそう言うと十夜に問いかけるような視線を向けた。
まるで決定権が十夜にあるような、そんな様子だ。
「何もないなら、戻るしかないだろう?」
何故解り切りきったことを聞くのかと、十夜は雅臣に問い返す。
「何もないワケじゃないよ。ほら…」
何もないと言った十夜のすぐ傍をすり抜け、瑞貴は壁の方へ近づくと壁の一面を指した。
そこには、よく見なければ気付かないが確かに幾何学的な模様が不思議な色彩で壁に浮かんで見える。
小さな丸が10個、どこかで見たような不思議な並びで並んでいた。
完全に等間隔で並んでいるのではなく、一定の法則があるようには見えるものの、よくわからない。
どういう原理なのか、薄らと壁に浮かび上がっているような、よくSF映画などで見かける僅かに燐光を放つ文様は、まるで別の空間のように感じられた。
丸も、それぞれ異なる色彩で微かに光っており、左側の列3つが黒、赤、橙、中央の列4つが白、黄、紫、虹、右側の列3つが灰、青、緑になっている。
「…何だコレ」
思わず十夜は文様に手を伸ばし、僅かに光って見える燐光にそっと指先を触れさせる。
壁に浮かび上がっているように見えた不思議な文様に指先が触れた瞬間、ヴン…という鈍い機械音にも似た音と共に、壁が撓んだ。
否、ただの壁だと思っていたソコは、壁の模様を映す液晶のようになっていた。
壁よりも柔らく微かに熱を持っているソレに1番似ているのは、パソコンのディスプレイかスマホやタブレットのタッチパネルだろう。
触れた場所に、小さな光が灯る。
試しに指を滑らせ、1番下の虹色の丸に触れたら、エラー音のような音が鳴って、十夜は慌てて指を離した。
「…何だ…コレは…」
再び同じ言葉を口にすると、十夜は眉根を寄せて首を傾げる。
ただの壁ではないことは理解出来るが、何なのだろうかと。
「たぶん、何かの仕掛けなんでしょうね~。似たような模様なら、見たコトありますよ~」
十夜ほどその仕掛けとやらに驚かなかったらしい雅臣は、記憶をたどるように宙を睨んで考える仕草をしながら光る丸に指を触れさせた。
1番上の真ん中の列にある丸から順番に一筆書きでなぞるように雅臣は右、左とジグザグに進みながら、最後に1番下の虹に触れる。
次の瞬間、先ほどのエラー音とは違った音が鳴り、各丸が点滅し始めた。
「…どうなってるんだ?」
ますます理解が出来ない様子で十夜はさらに首を捻ると、雅臣に問いかけるような視線を向ける。
一体コレは何なのか。
雅臣は、今、何をしたのか。
「セフィロトの木に似てるなって思ったんですけど~何も起こらないですね~」
問いかけるような視線を向けられた雅臣は、へらりと笑って十夜を振り返る。
十夜は雅臣の言葉で、あの幾何学的な模様が何なのか、ようやく思い至って驚いた。
確かに、錬金術をテーマにした漫画などでよく見かける生命の樹と呼ばれるものの配置にとても酷似している。
よく気付いたなという感想を抱きながら、十夜は改めてソレを見た。
確かに雅臣の言う通りのモノに見える配置だが、ソレでも丸が点滅したまま何も起こらない。
そのまま十数秒が経過した後、機械的な音声で、『認証に失敗しました。始めからやり直してください』というアナウンスが壁から聞こえてくる。
「…合ってたのか?間違ってたのか…?」
そもそも認証とは一体何なのだろうかと十夜は深まるばかりの謎に訝しみながらも、壁に浮かぶ文様から視線を逸らせずにただ眺めていた。
「やっぱり、ボクじゃムリみたいですね~もしかしたらと思ったんですけど~」
当てずっぽうで指を滑らせたのだろう、雅臣は当然の結果だと言わんばかりに明るく笑って見せる。
そもそも、何の認証かもわからないままコレ以上弄るのは問題だろうかと十夜は壁の文様を射るように睨みながらも考えていた。
「…ソレじゃダメだよ。1つ抜けてるから…」
それまで成り行きを黙って見守っていた瑞貴が、不意に囁くような声で言うと壁へと近づいて行く。
そのままそっと緩やかな動きで手を持ち上げると、雅臣が触れたように1番上の白い丸へと軽く触れる。
「ケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティフェレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクト」
瑞貴は雅臣と全く同じ順番で指を滑らせ、1つの丸を進むたびにソレに呼応する名称と呟いていた。
淡々と呟く声はまるで詠唱か何かのようで、単語が単語なだけにさながら儀式か何かのようにすら見える。
「ソレじゃさっきと一緒じゃないのか?」
1番下の虹にまで指を滑らせ、丸を再び点滅させた瑞貴に十夜は不思議に思って声を掛けた。
ここまでならば、雅臣がやってみせたことと何も変わらないからだ。
「10個のセフィラを経て至る、神の真意。隠された最後のセフィラ、ダアト…」
台本でも読んでいるような淡々とした口調でそう言って、瑞貴は最後に不自然に空いた白と黄の丸の間の何もない場所にそっと指を触れさせる。
ソコには丸はなく、何も映し出されてもいない。
けれど、触れた瞬間にピッと小さな電子音が鳴り、淡く点滅していた全ての丸が消えた。
代わりに、ガチャリという、重い音がして、壁が後ろへとへこんだ。
「どういうことだ?コレは…」
どうしてこんな隠しギミックを知っているのだろうか、いや、それよりもこの洋館は一体何なのだろうか、もはや何から考えていいのかも分からず十夜はただ淡々とした様子の友人と未だ動き続ける壁を交互に見るしか出来ない。
「…知らないの?セフィロトの樹の最後の1つ、異なる次元に存在するとされた、知識のセフィラ」
十夜を振り返り、瑞貴は微かな笑みを浮かべて首を傾げてみせる。
生命の樹に思い至った時点で気付いて当然だとでもいう様子だが、普通に考えてそんなオカルトに近い知識を名称を知っている以上に知っていることの方が明らかに普遍的ではないというのが十夜の感想だ。
もっとも十夜の知る限り瑞貴は趣味は読書と言ってのける程度には様々な本を読んでいて、さらに抜群の記憶力で以って大抵の内容は記憶しているらしいので、読んだ中にオカルトの本があったとしたのなら知っていても何も不思議ではないのだが。
「あ。奥、進めるみたいですよ~」
状況についていけていない十夜を他所に、雅臣がのんびりとした口調で薄暗がりを指す。
完全に壁が移動し終わると、そこには細い通路のようなものが存在していた。
覗きこめば、すぐに洋館に似つかわしくない、SF映画で見る電子ロックの施された機密空間を思わせるドアが見える。
無機質なコンクリートが剥きだしの壁に、電子ロックを解除するためと思われるコンソール、それから恐らく分厚いだろう頑丈なドアは、何かの極秘施設の入口のように見えた。
まるで引き寄せられるように薄暗い通路へと足を踏み入れた十夜は、まっすぐにドアの前まで進むと、改めてコンソールを見る。
カードキーを通すのだろうと思われるリーダーに、数字を打ち込むと思われるテンキー配列の液晶画面が薄暗い中で光っていた。
ドアには窓がなく、その向こうに何があるのか、全く想像も出来なかった。
試しにコンソールに触れてみるが、当然何の反応も示さない。
「…赤也たちを呼んできた方がいいかもな」
いくら何でもここから先が開けられるとは思えず、また開けていいとも思えない十夜は廊下へ戻ろうと明るい方へ向き直り、薄暗い通路から出ようとする。
振り返った瞬間、足元に何かが落ちていることに気付いた。
入ってくるときには気付かなかったのに、ソコにはカードキーらしきものが落ちている。
「何だ、コレ…」
恐らく用途は先ほどのコンソールを通すためのものだろうと解っていながらも、十夜は首を傾げながらソレを拾い上げた。
普通、映画などで見かけるこういう施設への入場用のカードキーには、持ち主の顔写真があるものなのだが、そのカードキーには顔写真らしきものどころか持ち主の名前すら記されていないため、十夜はカードキーをひっくり返したりして何か手がかりになる内容が書かれて確かめる。
そのカードキーには、名前も写真も何も無かった。
代わりに、何の意味があるのか蛇の絵が描かれている。
カードキーを持って明るい廊下へと出てくると、一体いつから放置されていたのか、カードキーはそれなりに劣化しているように見えた。
「試しに、ソレ通してみます~?ボク、やってみましょうか~?」
十夜の後ろから暗がりへと進んでいた雅臣が、廊下へ戻った十夜の後をついてくると手にしているカードキーを指して首を傾げる。
警戒しているようにも見えず、むしろ先へ進むことに積極的にすら見えるその様子は、少しでも安全の確認をしたいのだろうかと思わせる必死さの裏返しのようにも見えた。
「どうせ開かないだろうがな。赤也たちを呼んで来よう」
かなりの確率でドアは開かないだろうと思いながらも、先ほどの例もあるため十夜は念のために別行動中の友人たちを呼んでくるべきだと提案する。
「わかりました~。ボク、呼んできましょうか~?」
雅臣はその提案に反論はないらしく、素直に頷くと薄暗い通路から廊下へと戻ってきた。
薄暗い通路から人が誰もいなくなると、先ほどと逆の動きで壁が動き出す。
その仕組みに、どこかに感応センサーでもついているのだろうかと十夜は首を巡らせたが、当然ながらセンサーらしきものを見つけることは出来なかった。
最初から仕掛けを解いて開けるだけ開けたくせに中に入らなかった瑞貴はといえば、十夜の手にあるカードキーに視線を向けているだけだ。
「…俺が呼んでくる、貴様らはソコにいるか、談話室にでも戻っていろ」
少しだけ考えた末、十夜はそう言って友人たちの返事も待たずに廊下を早足で歩きだす。
談話室から今居た突き当りまでの安全は確認済みで、より危険な側に進んで行った赤也と拓海、それに祐一は恐らく安全なはずだ。
万が一何かあったとした場合、誰1人として伝令に来ないということは、まず考えられないのだから、安全だと断じてもいい。
そして、彼らが向かった先は、アレを隔離した階段の方だ。
限りなく低い可能性の中で、交戦中という選択肢がないワケではない。
そう思った時、十夜は自分が多少怖い思いをしながら1人で洋館を進むことと、大切な相手にアレを見せる可能性があることを天秤にかけて前者を選んだ。
恐怖に怯える姿を見たくない。
何より、恐怖に支配された世界で、自分すらその対象にされたくない。
十夜はただそれだけの理由で、自ら危険な方へと単独で進んで行った。
本当の万が一を考えて、雅臣をあの場所に残したのは、何かあった時のためだ。
自分のことよりも大切な誰かのことをここまで想えるということに、十夜は自嘲の笑みを浮かべながら廊下を進む。
まさか他人なんて蹴落とすためだけの存在だと思っていた自分が、自分よりも優先出来る誰かに出逢えるとは思っていなかったからだ。
十夜が長い廊下を進み、真逆の方向へ向かった3人と合流した時、幸いにも何も起こっていなかった。

作者:彩華
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