来々ゾンビーズ(仮) 2
相変わらずカーナビは道を表示しないまま、地図だけを頼りに進むこと数分、視界から民家は完全に姿を消し、鬱蒼とした木々の合間を縫うような細い、辛うじてコンクリートで舗装されている道を進む。
舗装された道路の体裁すら無くなった辺りから、もしかすると洋館所有者の私有地なのかもしれないと思うくらい、手入れもされていない木々に半ば埋もれるようになっている道だが、それでもちゃんと進めるのは恐らく車の性能がいいのだろう。
流石に一般道と変わらない速度は出せないが、それでも歩くのよりは早い速度で車は進んで行く。
雨はまだまだやむ気配を見せず、道を覆い隠すように茂る木々のせいで余計に暗く感じた。
「…本当にこの先に洋館など存在するのか…?」
地図上ではそうなっているのを確認しながらも、ナビゲーター役の祐一は胡乱げにフロントガラスの向こうに広がる暗い森を見つめる。
「うへぇ、マジで肝試し向きな雰囲気だなぁ…」
外の景色を眺め、赤也が苦笑交じりにそう言った。
「雨が止んでも、散策とかは出来無さそうだな。これじゃまるで、本当に海外のホラー映画じゃないか」
濡れるからという理由ではなく、一切の手入れがされていない完全な雑木林を窓越しに眺め、拓海も赤也に同意するように苦笑する。
それなりに鍛えている自覚のある赤也や拓海ですら苦笑する光景なのだから、当然ながら祐一や十夜に至ってはそもそも外に出たいとすら思わない光景かもしれない。
「そろそろ着くと思いますよ~」
ずっと車を走らせているのにも関わらず、疲れた様子もない雅臣は、数メートルしか視界がないはずの状態でのんびりと言う。
地図と実走行距離を踏まえての実感なのか、ただ適当に言っただけなのかは分からないが、ようやくゴールが見えて来たという言葉に車内はようやくかという安堵の空気に包まれる。
しかし、どこかほっとしたという様子の他のメンバーとは対称的に、ぼんやりと外の景色を眺めていた瑞貴は無意識に両手を羽織っているカーディガンの合わせのところで組み合わせるようにして握りしめていた。
「…どうかしたのか?」
隣にいたせいか、そんな様子に気づいた十夜が不思議そうに声をかける。
別に雨の中外に出るわけでもなく、目的地に着いたとしてもすぐに何か出来るわけではない。
それでも目的地がすぐソコだということで、肩の力を抜いた十夜たちとは逆に身構えるように小さく身を固くした瑞貴の様子は、十夜からすれば疑問でしかない。
「…何でもないよ。ちょっと、一瞬だけ寒かっただけだから」
声をかけられた瑞貴は、ふわりと笑って十夜の方を向くと、何でもないと小さく首を左右に振ってみせた。
普段と変わらない仄かな笑みだが、普段より精彩を欠いているようで十夜は小さく首を傾げる。
小動物的な外見のせいも相まって、まるで本当に何かに怯えているようにすら見える様子で、十夜は出発前の会話を思い出していた。
「いくら何でも、こんな昼間から何も出ないと思うぞ…?」
まさか本当に、いるはずのない肝試しのお化けとやらに遭遇するとでも思っているのではないだろうなと、十夜はからかう口調でそう言う。
「…別にそういうのじゃないんだけど…」
十夜の言い様に、瑞貴はただ苦笑して小さく否定する。
特に気にしているようにも見えないどころか、そう言われることをどこか楽しんでいるようにすら見えた。
「もし俺が幽霊なら、真っ先に狙うのは貴様だけどな。見た目が1番与しやすそうだからな」
実際の身体能力を考慮せず、見た目だけで考えたらそうなると、十夜は変わらずからかうような口調で続ける。
本来、同年代の同性に向けるには、割と酷い言い様なのだが、言う方も言われる方も気にしていないくらい日常のやりとりになって久しい。
「僕が襲われる分には別にイイけど…。十夜が襲われるより、よりよっぽどイイよね」
小さく笑うと、瑞貴はどこか楽しそうな口調でそう言った。
普通に考えれば、その発言内容で可笑しそうに笑える精神状態を心配しないでもないが、瑞貴のその発言には一応きちんとした根拠は存在する。
見た目はともかく、身体能力、この場合は戦闘能力と言い換えるべきだろうが、その点に於いて、瑞貴は十夜よりもはるかに優秀な人材なのだ。
「あー、まぁ、そうだよな。その場合、もれなくオレとか護衛がいるわけだし」
いっそお化けとやらのターゲットが瑞貴に集中してくれれば、対処しやすいと後ろから赤也までもがそう言って笑っていた。
「大丈夫ですよ、もし何かあっても、ボクがちゃんと守りますから~」
そこへ、被せるように運転中の雅臣まで口を挟んでくる。
「…何なんだ、貴様らのその謎の使命感は」
完全に普段通りのやり取りで笑い声の飛び交う車内に、十夜はいつも通りため息交じりに呆れた声でそう言う。
ここまでテンプレと言われても仕方のないくらい、完全に普段のやりとりと変わらない流れだ。
「むしろ、戦闘能力のない祐一と十夜の方が、実は怖いんじゃないか?」
友人たちをからかい合う流れになったのか、拓海がそんなことを言い出し人の悪い笑みを浮かべる。
「安心しろ、ホラーは得意分野だ。少なくとも触れられない幽霊相手なら、間違いなく動じない自信がある」
瞬時にきっぱりと言い切ったのは祐一で、彼の言葉通り恐らくこのメンバーの中で1番ホラーやスプラッタに強いことは間違いない。
真夜中に年齢制限付のホラー映画を見るのが好きだと言えるくらい、祐一はホラーに慣れている。
更に、将来は外科医になると決めてかかっているせいで、例えば血飛沫飛び交うスプラッタ要素であってもかなりの耐性があるらしい。
「いや、実態のあるお化けだったらどうするつもりだよ」
思わずと言った様子で赤也が祐一に言い返しているが、恐らく祐一は実体のあるお化けが出たとして、相手が襲い掛かってこない限りは割と平気そうだというのが友人一同の見解だった。
「そもそも、ただの肝試しに、仕込み以外のお化けとやらが出てきても困るけどな。いわくつきの洋館とやらなのか?」
心霊スポットとして有名な場所に行くのかと、十夜は妙な方向に盛り上がる友人たちに呆れ交じりに言葉を挟む。
学園からの指示内容は、健全にアウトドアを楽しみつつ、廃墟スレスレの洋館で肝試しをしてこいという、あくまでレジャーとして楽しみつつ面白おかしくレポートを作成しろというものだ。
そんな校外学習特別課題を出した学園側が、予め肝試しレポートのために洋館にそれらしい仕掛けくらいはやりかねない人材が雁首揃えているという点に於いて、課題実行者の6人は誰一人疑う余地なしと思ってはいるものの、流石にお化け役は常駐しているとは思っていない。
「………嫌な、事件だったね」
ポツリと、視線を窓の外に向けながらそう呟くように言ったのは瑞貴だった。
暗く響く声音と、静かな口調が口調だけに、一瞬、ゾクリとくるような雰囲気だ。
「何…?」
まさか本当にいわくつきの場所なのかと、十夜は思わず瑞貴をまじまじと見る。
「…昔ね…その洋館で火事があってね…?地下室にいた子供たちが逃げ遅れるっていう、事件でね…」
窓の外を見たまま、友人たちに視線を向けることなく、瑞貴は淡々と語り出す。
静かな声音と、落ち着いた口調が妙に信憑性を醸し出すせいで、十夜は思わず半身を引く。
窓からの視界は狭く、強い雨と深い木々に遮られているというのに、どこか遠くを見るような様子は見えない何かを見ているようで、ますます臨場感を煽っているようにすら見える。
「あ、着きましたよ~」
そこへ、空気を読んでか読まずか、雅臣の場違いに明るい声が社内に響いた。
車が停まり、条件反射で前を見れば、そこには大きな洋館が聳え立っている。
まるで映画に出てきそうな、こんな森の中にあることに違和感を覚えさせるくらい重厚で年季を感じさせる洋館は、確かに金持ちが道楽で建てた別荘という趣だ。
その建物を目にして、十夜はふとあることに気がついた。
「…で、瑞貴。この洋館で昔どんな事件があったんだって?」
半眼になって、十夜はわざと抑えた声音でそう口にする。
「…え?だから、火事があって、地下室に閉じ込められた子供たちが…」
再び説明を求められた瑞貴は、十夜を振り返ると同じ内容を繰り返す。
真顔で、というわけではないが、わざと表情を消したような神妙な表情が、逆に十夜に冷静さを取り戻させた。
「…ほう。火事があったのなら、どうして洋館が丸ごと残ってるんだっ!」
一瞬、本当の話かと思って身構えたことが余程自尊心を傷つけたのか、十夜は怒気を露わにそう怒鳴る。
「…えっと…建て直した、とか…?」
少しだけ考えるような素振りを見せて瑞貴はそう言って軽く首を傾げると、どこか曖昧に誤魔化すような笑みを浮かべた。
「普通に考えて、こんな年季はいってますみたいな外観でわざわざ建て直すかっ!」
最初に瑞貴をからかったのは十夜自身だが、まさかこんな手口でやり返されるとは思ってもいなかったため、怒鳴り返す十夜の声には羞恥が滲んでいる。
うっかり騙されるところだったが、最初から冷静に考えれば、火災事故があった現場に行って来いとは、いくらあの突拍子もないことを言い出す学園関係者も流石に言いださないだろうと気付けたはずだ。
「瑞貴、こういう場合は、一家惨殺とかもう少し信憑性のある内容を考えなければ騙せないと思うが?」
最初から冗談だと思っていたのか、祐一が小さく笑みを含んだ声でそう言った。
「……嘘じゃないよ…?」
囁くような声でそう言うと、瑞貴は思わず見惚れるような綺麗な微笑みを浮かべる。
見ている人間を引き込むような深い瞳が印象的で、まるで夜の湖のような底の見えない雰囲気に飲まれそうになるが、哀しいことに友人たちにとっては見慣れたもので、雰囲気に飲まれることなどない。
「どうします~?ギリギリまで近づいて、中に入りますか~?」
ずっと車の中というのも、身体に負担だろうと、雅臣はフロントガラスを指先で突いて友人たちに方針を聞いた。
少しばかりホラー映画の冒頭のようだった空気は、それだけで完全に霧散する。
もっとも、あくまでホラー映画のような空気を感じていたのは、十夜だけなのだが。
「そうだな。気持ち雨脚も弱まったみたいだし、オレ見てくるよ。鍵、ちょーだい」
玄関と思われる大きな扉を視界に収め、赤也がカラリと笑った。
指令書と地図、それに鍵を預かっていた祐一から鍵を受け取り、言葉通り少しだけ弱まった雨の中を駆けだしていく。
車の中から友人たちが見守る中、赤也は大きな扉の前まで行くと、鍵を確かめるようにして恐らく鍵穴に差し込む。
確かな手ごたえを感じて鍵を捻ると、施錠が解除されるような音が雨音に混ざって聞こえる。
鍵を抜いてポケットに突っ込むと、赤也は大きな扉に手をかけて、ぐっと力を込めた。
施錠が解除されたのなら、これで扉は開くハズだ。
しかし、扉は開かなかった。
車の中からその様子を見守っていた友人たちは、おやと首を傾げて顔を見合わせ合う。
「…俺も行ってこよう。古くなって、固まっているのかもしれないしな」
そう言って即座に行動に移したのは拓海で、車を降りると赤也の元にさっさと駆け寄っていく。
拓海の姿を認めるなり、赤也が何やら説明をしているようだが、残念ながら雨が止んだわけでもなく車内ということもあって、車に残った友人たちには全く聞こえない。
いくつか言葉を交わした後、赤也と拓海は再び大きな扉に向き直ると、取っ手を捻ったり押してみたりと色々試しているようなのだが、それでも扉は開く気配がなかった。
「みんなで見に行った方が良さそうですかね~?」
車のエンジンは切ってあるため、雅臣が扉を相手に奮闘している2人の姿に、そわそわとした様子で車内の友人たちと車外の友人たちに交互に視線を向けている。
「雨もだいぶ小降りになってきたしな。いつも赤也と拓海に任せきりも良くなかろう」
雅臣の言葉に同意するように、祐一は重々しくそう言って大きな扉と奮闘する友人たちの支援に向かうべく車のドアに手をかけると、まだ雨の降る中を友人たちの方へと向かっていった。
「…そうだな…。このまま放っておけば夜になり兼ねん」
同じように同意して、十夜も外に出ようとドアに手を掛けたのだが、ドアを開ける前に後ろから服の裾を引かれて留まる。
届く場所にいて、そんなコトが出来る人間は、1人だけだ。
「どうかしたのか?」
普段から十夜の理解の範疇を超える行動をすることが多い瑞貴ではあるが、コレは完全に想定外だったため、十夜はかなり本気で首を傾げつつ振り返った。
「……あ、ごめん。…つい」
声を掛けられ、そこでようやく自分の行動に思い至ったのか、瑞貴は慌てて手を放すとそっと視線を逸らす。
珍しく本気で困惑しているような表情に、どうやら完全に無意識の行動だったらしいと十夜は一層驚いた。
「雨降ってますから、瑞貴さんは車にいてくださいね~。あ、十夜さん、瑞貴さんのコトお願いしますね~」
そんな2人の微妙な様子に気づいたのか、それとも普段通りのマイペースなのかは判別できないが、雅臣はソレだけ言うと返事も待たずに車を降りていく。
今のやり取りを見ていたような様子はないので、たぶん何かを考えての言葉ではない。
そもそも雅臣は十夜同様、瑞貴限定で常軌を逸したレベルの過保護っぷりを発揮しているので、何もなくても今のような言葉が普通に出てくるのだ。
「……ごめん、十夜も、行っていいよ?」
2人取り残された車内で、先に沈黙を破ったのは瑞貴の方だった。
僅かに微笑みを浮かべ、十夜を見上げる。
その表情が、翳を帯びているように見えて、十夜は動きを止めた。
まるで、言葉とは逆のことを言われているような錯覚に陥るほど、不安そうで儚げに見えるせいで、言葉を失ってしまう。
相手が見た目通りの印象の少女であれば、思わず抱きしめたかもしれないくらい、笑っているのに泣いているような、そんな印象だった。
「…貴様は、行かないのか?」
車に残れと言われたところで、素直に残るような相手ではないと知っている十夜は、散々言葉を探した挙句、口にしたのはそんな言葉だ。
普段なら率先して車外に出そうなものなのだがというのが正直な感想で、ここで大人しくしているどころか引き留めようとすることにそこはかとなく違和感を覚える。
「………」
十夜の問いに、瑞貴は一瞬何かを答えようと口を開いたのだが、そのまま言葉が零れることがないまま再び口を閉ざすと、俯いてしまった。
何か、外に出たくない理由があるのだろうかと疑ってしまうその様子に、十夜はますます首を傾げるばかりだ。
「行かない理由は、なんだ?」
別に責めるつもりはないのだが、十夜には瑞貴が車外に出るのを忌避する理由がさっぱり思い当たらない。
けれど、理由もなく協調を乱すような性格ではないことは知っているし、黙っていても基本的には周囲に合せるように行動していることも知っていた。
だから、こうやって留まるという理由が想像できないのだ。
「……えっと…別に、そんな大した理由じゃないんだけど…」
顔を上げ、十夜に仄かな笑みを向ける瑞貴は、普段と何も変わらないように見える。
少なくとも、先ほど一瞬見せた、翳のある表情ではなかった。
「いいからさっさと言え。貴様が理由を言わないと、俺が動けないだろうが!」
まるで先ほどの表情が見間違いだったのかというくらい普段通りの相手に安堵し、十夜はいつも通りにそう言い放つ。
常に怒っているような口調の十夜だが、本当に怒っているわけではない。
「……皆には、内緒にしてね…?」
仕方がないとでも言いたげに苦笑すると、瑞貴はそう言って十夜の手にそっと触れた。
触れられた部分が、温かくて、十夜は少しだけ驚いて目を瞬かせる。
たまに本気で生きた人間かと十夜がからかうくらいに、瑞貴の基本的な体温は低い。
だから、触れられれば、ひんやり冷たいと感じるはずだった。
「おいっ!」
それだけで事情を察した十夜は、条件反射で声を荒げると自分の手に重ねられていた手を掴み、荒っぽく引き寄せる。
「…ちょっと、十夜…!?」
何をするのかと、反動で倒れ込むようにして十夜の方へ引き寄せられた瑞貴が小さく驚きの声を上げるが、当然黙殺された。
十夜は苛立ちを隠せない様子で、自分の手を引き寄せた相手の額に軽く当てたかと思えば、思い切り舌打ちをする。
「何で黙ってるんだっ」
不思議なコトに、少し触れるだけで体温が高いことに気付けるくらいだというのに、顔色はむしろ血の気が引いているというくらい蒼白だ。
天候のせいで車内が暗いこともあって、顔色の悪さに気付けなかった十夜はすぐ傍にいた自分自身の間抜けさに呆れると同時に、黙っていた瑞貴に対しても怒りを露わにし、きつく睨み付けた。
「…少し休めば、たぶん大丈夫だから…。言ったでしょ?薬の調整中だって…」
乱暴に扱われていることを気にすることもなく、瑞貴は困ったような微笑みを浮かべてそう言うと、内緒だというように人差し指を口元に当てて見せる。
「貴様の大丈夫ほどアテにならない言葉があるかっ!こんな状態になるなんて聞いてないぞ!?」
十夜は思い切り声を荒げ怒鳴りながら、本人から説明された言葉を思い出す。
少なくともこんな明らかな不調だなどとは、一言も告げられていない。
「別に隠してたワケじゃなくて…。僕もここまでとは思ってなかったんだよ…」
本気で怒鳴る十夜に対し、瑞貴は変わらず少しだけ困ったような微笑みのままそう言った。
「仮にそうだとして、何故もっと早く言わないんだっ!…この方が楽だろう…仕方ないからこうしててやる」
本気で怒っているような口調で怒鳴った後、十夜は溜息をつくとそのまま自分に凭れさせるように抱き寄せ直してから顔を背ける。
自分でやっておきながら、恥ずかしいとでも思ったのだろう、軽く頬が赤く染まっていた。
そんな十夜を見上げるように視線を向けた瑞貴は、小さく笑うとそのままの体勢で軽く目を伏せる。
本当は、別に普通に座っているだけでも問題なく、十夜が過剰反応しすぎなだけだというのが瑞貴の心境ではあったのだが、十夜なりの必死さに絆されて大抵いつもされるがままになってしまう。
けれど、すぐ傍らに人の体温を感じるというのは、存外安心できるものらしく、いつしか完全に身体を預けきっていた。
そっとそんな様子を窺って、十夜は彼にしては珍しく柔らかな微笑みでそっと傍らの瑞貴の髪を梳く。
他の友人たちにこういう光景を見られると、かなりの確率でからかわれはするものの、その度に言葉では咬みつく十夜ではあったが、実はこうやって穏やかな時間を過ごすことが好きだった。
もちろん、傍らに置きたい相手は瑞貴だけで、些か猟奇的な喩えにするなら、銀の鳥籠の中にでも閉じ込めておきたいと思うような、ずっと傍で大切にしたいと感じる事すらある。
けれど、もし閉じ込めてしまったら、虹のようなカラフルで鮮やかに囀る音が死んでしまうような気がして、閉じ込めてしまうことは出来ないと思いとどまるのだ。
1度だけ冗談のようにそれを告げた事はあったが、十夜自身は一所に留まれる人間ではなく、どこまでも高く遠く羽ばたいていく人種だから、いつしか傍らの鳥籠だけでは満足できなくなると言われてしまった。
今思えば、その時、囚われること自体を嫌がるような言葉は最後まで告げられず、仮に実現したとしても受け入れてしまいそうですらある。
「…あまり、無茶ばかりしないでくれ…」
ポツリと、十夜は心からの気持ちを呟いた。
引き寄せた身体から伝わる体温は、自分よりも高い。
完全に眠りに落ちてしまったのか、何時しか完全に力が抜けた抜け殻のような身体が無防備に預けられていた。
皮肉にも伝わってくる温かさと微かに漏れる熱を帯びた呼気が確かな生の存在感を放っている。
普段は血が通っているのかと不思議に思うくらい生を感じさせない冷たさだというのに、瑞々しく奏でられる音色や向けられる笑顔や涼やかに響く声、そして真っ直ぐに向けられる想いの全てが生を感じさせてくれた。
だから、今の方が、人間らしい温かさという意味でいくら生を感じられても、何の安心感ももたらしてはくれない。
そればかりか、このまま目を開けないのではないかというような、そんな不安が募ってくる。
不意に、窓ガラスを軽く叩く音がして、十夜は反射的に音を振り返った。
ソコには、大きな扉と奮闘していたハズの拓海がいて、車内を覗くように立っている。
「正面玄関は無理っぽいが、裏口から入れるみたいだぞ」
窓越しに、拓海がそう言って洋館を示す。
いつの間にか雨は上がっていたらしく、雨音に邪魔されることなく声が届く。
「…裏口の鍵だったのか?」
正面玄関ではなく、裏口が開いたという事実に十夜は眉根を寄せてそう訊いた。
だったら最初から開かない扉と奮闘するなんて、時間の無駄だとでも言いたげだ。
「…それが、同じ鍵だったみたいだぞ。……瑞貴は、どうしたんだ?」
十夜の反応が予想通りだったのか、拓海はあっさりとそう笑みを含んだ声で答えた後、もう1人の友人の様子に気づいたらしい。
シークレットサービスの使命感以前に友人なのだから、気に掛けるのは当然のことだった。
「薬の問題だそうだ。少し熱があったから、大人しくさせておいた」
本当は少しという言葉で片づけられるものではないと十夜は自分の肌で感じてはいたのだが、大したことでもないように皮肉気な笑みを浮かべて見せる。
皆には内緒にと頼まれているものの、流石にこの状態で何もないとは言えないし、何も知らせなければ友人たちは何故言わないのかと後で割と本気で怒ることは目に見えていた。
別に十夜が怒られるわけではないのだが、十夜の心境としては他の友人たち寄りだ。
けれど、他の友人たちに心配を掛けたくないと思った瑞貴の気持ちも分からないでもなく、結局、間を取るような形でそう言うだけに留めておいた。
「中は、驚くくらい綺麗なようだし、取りあえず移動しないか?」
そう言うと、拓海はそっと音も立てずに車のドアを開ける。
「起こすのか…?」
出来ることなら少しでも長い時間、休ませておきたいというのが十夜の偽らざる本音だ。
そう思って控えめに問いかけた十夜に、拓海は小さく首を左右に振って応えると、器用に瑞貴を抱き上げる。
「起こすわけないだろう?」
片目を眇め、拓海は余裕のある笑みを見せた。
「…目を覚ましたら、ソレは怒るんじゃないか…、流石に」
ここまでされても目を覚まさないというのは珍しいと思いながら、十夜は拓海に対してやれやれとため息交じりにそう告げる。
拓海がしているのは、俗にいうところのお姫様抱っこというやつだ。
見た目が見た目だけに違和感がないのが悲しいところだが、普通に考えて同性にそんなことをされて喜ぶはずがない。
少なくとも十夜がソレをされたらふざけるなと大声で怒鳴ることは間違いなかった。
「そうでもないぞ。【コンクエスト】の幕間とかで、たまにやっているからな。あとは、彩夢の時も、たまにな」
怒られることはないと、拓海は妙に実感を込めてそう説明する。
言われてみれば、確かに学園内での【コンクエスト】で【ジャスティスレッド】や【ジャスティスブラック】が【杜若】相手にそういうことをしている光景を見たことがないわけではない。
スーツ姿の拓海や赤也が、護衛対象である彩夢を抱き寄せる光景など、割と日常的に目に出来る。
「…ソレは、演じるスイッチが入っているからだと思うがな…」
思い至った光景に、十夜は小さく苦笑した。
自然と役に入り込み、完璧に違和感なく、まるで初めからそういう人物であったかのように演じることが出来るのが、瑞貴の隠された特技だと思っている。
拓海の言う、たまにやっているという部分に該当するのは、いずれも少女を演じている時だ。
【コンクエスト】の【杜若】も、彩夢も、実は瑞貴なのだと教えられた後も十夜がしばらく信じられなかったくらいに、声も仕草も表情も何もかもが少女で、話し方すら普段の瑞貴からは想像が出来ないくらい、完全な別人格のように見えた。
全部本人で、演じているだけだと言われても、慣れるまでは俄かには信じがたいレベルの別人っぷりだが、完全に記憶に齟齬がなく、誰にした話も当然ながら把握しているので、残念ながら全部同じ人格らしいが、演じている役に合わせて考え方まで変えているような節があるので、素の状態でお姫様抱っこはさすがに抵抗があるのではというのが十夜の言い分である。
「瑞貴が瑞貴の時にもやったことがあるから、大丈夫だ」
それに対し、拓海はサラリとそう言うと少し暗くなりつつあるぬかるんだ道を危なげなく歩く。
「…だったら最初からそう言え…」
十夜は呆れたように脱力しきった声でそう言うと、拓海の後を追いかける。
ふと車の中に瑞貴が持っていたショルダーバッグが残っている事に気付き、それを引き寄せた。
「…何が入ってるんだ…?」
普段よりも大きな鞄は、恐らく薬の類が多めに入っているものと思っていたのだが、予想していたよりも重いことに十夜は首を捻る。
他人の荷物を勝手に検める趣味はないので、開けることなくそのまま持って行くが、中身が気にならないと言えば嘘だった。
そのまま連れだって洋館に向かえば、洋館の方から雅臣が走ってきてすれ違うように車の方へ向かったかと思えば、車のロックをかけて戻ってくる。
洋館に向かう拓海と十夜に追いついた雅臣は、拓海が抱き上げた瑞貴に痛まし気な視線を向けただけで、何も言葉を発することはなかった。
起こしてはいけないとでも思ったのだろう。
それは洋館で待ち構えていた赤也と祐一も同じだったようで、無言で手招いた後、そのまま先導するように洋館の中に入っていく。
十夜たちを呼びに来る前に中をざっと確認はしていたようで、広い館内を迷うことなくリビングと談話室を足して割ったような部屋へと通された。
恐らく、庭というか森に面している一面が、大きなガラス張りのサロンのようになっているので、灯りを用意していない今の時間でも他の部屋よりは明るいという事情でこの場所を選んだのだろうと察せられる。
同時に、ゆったりと休めそうな広いソファや寛げそうなテーブルセットが置かれているため、この人数でも広すぎる開放感があり、長時間車で移動した後だと余計にリラックス出来そうという理由もあるのかもしれない。
この洋館はいつから放棄されていたのだろうと言うくらい、驚くほど手入れが行き届いていて、テーブルに埃が舞っていることもない。
2部屋を繋げたような広い部屋の奥にある長椅子があり、拓海は瑞貴をそこへそっと横たえると、自然な仕草で頬に掛かる髪を払ってやった。
「…ココまでされて起きないのも珍しいなぁ」
少し離れた場所に置かれた応接セットのようなテーブルとセットになった椅子に腰を下ろし、赤也がしみじみとした口調でそう言う。
移動で目を覚まさなかったのだから、隣の部屋くらいの距離で多少話しても起きないだろうと赤也は他の友人たちを手招いた。
「服装にさえ目をつぶれば、とても似合うんだがな」
祐一は起きる気配のない友人に視線を向け、微かな笑みを含んだ声でそう言った。
薄暗い洋館の一室で、大きな長椅子に横たわるのは人形のように整った容姿の性別不詳の存在。
確かに、とても絵になる光景ではあった。
ただ、確かに祐一のいう通り、服装が洋館の雰囲気とは程遠いため、そこさえどうにかすれば、1枚の絵のようになるに違いない。
瑞貴の私服を分類した場合、1番近いのは恐らくパンクではないかというのが十夜が勝手に抱いている印象だ。
丈の長いシャツやカーディガン、変形レイヤードのシャツやシンメトリーの服も割と多く、これでアクセサリーの類などが増えれば間違いなくバンドでもやってそうな印象になるだろうとこっそり思っていた。
ただ、元々が中性的で、やや少女めいた外見だからこそ、普通の服装だと逆に違和感がありそうだと思わないでもなく、少なくとも他の友人たちと服装を取り換えたとしたら、双方違和感しかないのは間違いないので、わざと性別不詳でも違和感のない服を選んでいる可能性が高いとも思っている。
「…どうせなら、ゴシックの方にすれば似合うのに…」
思わず考えていたことを口にして、十夜は瑞貴に視線を向けた。
服装のジャンルで言えば、掲載される雑誌は似たようなものだろうというくらい近しい分類の中で、十夜が思い浮かべたのはゴシック調の服装だ。
黒を基調とした重厚な衣装は、抜けるように白い肌に華奢な身体つきだと、とても良く似合うだろうと考えたのだが、実は十夜が思い浮かべたのはゴシックはゴシックでも少女向けのゴシックロリータ寄りの衣装だった。
日頃から学校内でロリータ衣装、主に甘ロリに分類される砂糖菓子のような服装の教師を見慣れているせいで、そういう服装が自然と思い浮かんでしまうのだ。
「十夜さん、考えてる事、声に出てますよ~。まぁ、確かに似合いそうですよね~」
十夜が知らないうちに洋館の中を勝手に散策していたのか、既に勝手知ったる洋館となっているらしい雅臣が、ドコからかくもりひとつなく磨き上げられたグラスを人数分持って戻ってきた。
本来の用途は晩餐用なのだろうそのグラスの形状は、ワインを嗜むためのものだ。
「ボク、車から飲み物とか取ってきますね~。他に取ってくるもの、あります~?」
グラスを並べ終えてから、そもそもこの洋館にはライフラインが通っていないことにでも気づいたのか、雅臣がのんびりとした口調でそう言った。
「完全に暗くなる前に、灯りの類や食材とか、こっちに運んでおくか」
肝試しをするハズの場所ではあるが、廃墟でも何でもなく、まるでつい昨日まで誰かが住んでいたような綺麗な洋館を見渡し、拓海はそう言って裏口に続く廊下へ歩き出す。
少なくとも居住には文句なしの空間のため、最悪のケースである車中泊や野宿に近い状態は免れたのだが、ソレならソレで車に積んだままの食材やらを運び込まなければならない。
「じゃ、ソレはオレと拓海で運んじまおうぜ。雅臣は泊まれる部屋とかそういうのないか、真っ暗になる前に調べといてくれ。祐一は雅臣と一緒に、どの部屋を拠点にするべきか探してくんない?灯り、あんまり買ってないからさ」
テキパキと赤也が指示を出し、勝手に友人たちの行動指針を決めるが、当然ながら適材適所に振り分けていた。
振り分けを聞くなり、拓海は了解と片手を挙げ、さっさと部屋を出ていく。
「…俺は?」
名前を挙げられなかった十夜は、果たして何をしろというのかと訝しむように赤也を見る。
「ソコの眠り姫をよろしく。いやほら、一応オレの立場とか考えると、1人にしとくのはどうかと思うんだけど、効率的にオレや拓海が動いた方が早いしさ?」
あっさりとそう言い、本来ならばシークレットサービスである自分や拓海がついているのが理想なのだがという前置きを付けた状態で赤也は十夜に護衛対象を託してしまう。
因みに戦闘能力だけで計った場合、赤也と拓海に次いで身体能力が高いと思われるのは瑞貴で、耐久力や持久力だけで言うなら、本当は雅臣がダントツなのだが、既に簡単に散策され危険がないと判断された洋館で、ただ見守っていればいいだけのような役割に、身体能力の高い人間を置いておくほど無駄なことはない。
それに、万が一何かが起こったとして、極端な話、瑞貴を起こせる人間さえいればいいのだ。
何せ赤也と拓海が唯一勝てない相手というか、実力伯仲の赤也と拓海のバトルを唯一仲裁出来る存在というか、とにかく瑞貴の身体能力は見た目に反してものすごく高いのである。
出来る事なら起こしたくないというのが彼らの総意ではあるのだが、もし何かが起こった場合、とても頼りになる存在であることは間違いなかった。
「そいじゃ、真っ暗になる前にさっさと行動しようぜ」
言うだけ言って、赤也はさっさと行動を開始する。
と言っても、必要な物は車に積まれたクーラーボックスとルーフの上の調理に関するモノだけだ。
何度か往復するだけで簡単に終えられる作業だろう。
「あ、赤也さん、コレ車の鍵です~」
外へ向かおうとする赤也に、雅臣がそう言ってキーホルダーのついた鍵を放り投げる。
鍵は綺麗な放物線を描き、きちんと赤也の手の中に納まった。
「それじゃ、十夜さん、あとお願いしますね~。祐一さん、行きましょう~」
雅臣は雅臣で、早々に行動に移すべく祐一を促して部屋を出ていく。
既に外はそこそこ暗く、山の中であることと天気が悪いせいもあって、普段ならまだ明るく感じる夕方であるのに薄暗い。
急いで居住に適した場所を探してこなければ、真っ暗な中で調理するハメになり兼ねないということだ。
「そうだな。一足先に肝試しの下見と行こう」
祐一は、薄暗い廊下に視線を向けるとどこか楽しそうにそう言うと、軽い足取りで部屋を出ていく。
取り残された十夜は、薄暗い部屋の中、話す相手もいないためにぼんやりと周囲を眺めているくらいしか出来なかった。
自分がこの場所に残された理由は、たぶんこういう環境では役に立たないからだと思っている。
出来る事と言えば、せいぜい留守番程度で、例えば赤也や拓海のように率先して重い荷物を運んだり、安全を確認したり、そういうコトには向いていない。
体力面でそこまで劣るというわけではないが、十夜は音楽家になると小さい頃に決意した時から、基本的にインドア派というか、手や指を傷つける可能性のあることを避けてきた。
だから、当然、祐一や雅臣のように包丁を持ったり、火を扱ったりという調理だって、ほとんど出来ない。
今は、目を覚まさない友人を診ているという大義名分があるから自然と残されたが、実際は友人たちが気を使ってくれているのだと、十夜は役立たずな自分が嫌だった。
何も出来なかった無力な自分が嫌いで、悔しくて、だからせめてバイオリンだけでもと、代替え行為のように打ち込んだ幼い日が過る。
何度も泣きながら、叫びながら、自分を苛む劣等感と無力感を打ち消すように、それこそ寝食を忘れる勢いで打ち込んで、ようやく成功への道が見えて来たというのに。
「…あれ…?」
ふと、十夜の脳裏を過ったのは、いつも記憶の中で笑ってくれる音楽の天使の姿だったが、それは記憶に焼き付いた花のような笑顔ではなかった。
一瞬だけ過ったのは、必死に何かを叫ぶ姿。
言葉を向けられたのは、自分のハズだと、十夜は不鮮明な記憶を必死に辿る。
思い出せない記憶。
つい先日、その時の出逢いだけは思い出したのだが、どうしても思い出せないのは、別れの記憶。
それに、考えれば考える程、疑問が残った。
「…何で、俺は1度きりしか、会わなかったんだ…?」
思い出した今なら言える、確実に一目惚れで初恋の相手だと言える相手だったのだから、自分の性格を考えたならあの後も会いに行っても不思議ではない。
むしろ、行くはずだ。
十夜が幼い音楽の天使に一目惚れしたのは、容姿だけではないのだから。
天使の奏でる、天上の虹の音色が心に響いたからこそ、自分はバイオリンを始めたハズだ。
それなのに、何故、たった1度きりしか会わず、しかも最近まで自分はそれを忘れてしまっていたのか。
何か、とても大事なことを忘れているようで、十夜は言いようのない焦燥感に駆られ、半ば無意識に自分に預けられた友人の側へと歩み寄った。
長椅子に横たえられたまま、相変わらず目を覚ます気配もない。
まるで作り物のように整った容姿のせいで、眠っていると本当に人形のようにしか見えない姿に、十夜はいつも不安になるのだ。
触れたら、体温を感じないのではないかと、いつも思ってしまう。
確かに生きている人間だと頭では理解しているはずなのだが、どうしても不安を抑えられず、十夜は存在を確かめるようにそっと手を伸ばした。
あと少しで触れるというところで、十夜は手を止める。
別に、思いとどまったわけではなく、バタバタと急き切って駈け込んでくる足音が聞こえたために、そちらを振り返っただけだ。
「十夜っ!瑞貴っ!」
友人の名前を呼ぶにはやや切羽詰まった様子で、勢いよく部屋の中に飛び込んできたのは赤也だった。
よほど慌てる何かがあったのか、名前を呼んだ友人たちのうち片方は眠ったままだというコトすら忘れているのではないかというくらいの必死な様子だ。
「起こす気か…っ!……どうした…?」
思わず条件反射で批難の声を上げた十夜だが、珍しく本気で慌てている様子の友人様子を見て、訝しむように首を傾げる。
普段からテンションが高く、大袈裟な程明るく元気な赤也だが、こんな切羽詰まった様子は初めてだった。
「悪い…、やっぱ、そいつ起こすコトになりそうだ…。いや、でも起こさない方がいいのか…?」
十夜の姿を認め、赤也は少しだけ落ち着きを取り戻したのか、声のトーンは落としたものの、思考はやや交錯しているようで、視線を瑞貴に向けると独り言ちるように言いながら首を捻っている。
「拓海はどうした?」
一緒に行動していたハズだろうと、目の前で何やら混乱状態の赤也に対し、十夜はそう訊いた。
「拓海は、祐一と雅臣を探しに行ってる。全員一緒に居た方がいいからな」
赤也は少しだけ早口でそう言うと、既にかなり暗い外に視線を向ける。
外が明るければ、鬱蒼とした森の前に庭があるので、景色はとても良さそうだ。
しかし、赤也が外に向ける視線は、景観を確認するようなものではなく、もっと険しいものだった。
まるで何かを警戒しているような様子に、十夜はますます不可解だという視線を赤也に向ける。
「……あれ…?どうしたの…?」
場違いな程穏やかな声に、十夜が条件反射で声のする方を見れば、そこには何時の間に起きたのか瑞貴が長椅子の上に置き上がっていた。
流石にこれだけ騒がしければ起きない方がどうかしているだろうが、緊張感のないというより寝惚けているのかと思うほど柔らかな声で瑞貴が不思議そうに首を傾げる様は、険しい表情の赤也とは正反対に、実に穏やかだ。
「…起きたのか…」
果たしてこのタイミングで起きたことが良いのか悪いのか、赤也の様子の理由がわからない十夜には判断が出来ないが、柔らかな表情を見ているともう大丈夫に見えて少しだけ安心出来た。
「…うん。ごめんね、寝ちゃうつもりはなかったんだけど…。僕、結構寝てたの…?」
十夜に向けて少しだけ照れたような困惑ぎみの表情で微笑んだ後、瑞貴は自然と窓に視線を向けて目を瞬かせながらそう尋ねる。
恐らく、窓から見える外の暗さに、それなりの時間経過を感じたのだろう。
「そんな長くはないと思うが、もう大丈夫なのか?」
普段と変わらない瑞貴の様子に少しだけ安堵し、十夜はそう言って十夜にしては珍しく素直な笑みを見せた。
「…どうかな…。大丈夫だといいんだけど、僕にも分からないかな…」
瑞貴はまるで独り言のようにそう言うと、視線を外に向けたまま、まるで森の奥を覗きこむようにしている。
赤也と2人して窓の外に視線を向けている様子に十夜はますます不可解だという様子で、同じように大きなガラス窓の向こうに視線を向けた。
かなり暗くなった外に、広がるのは黒い森だ。
当然何かが見えるワケでもなく、しみじみと肝試しにお誂え向きな洋館だなと感じる程度ではあるが、洋館と森という組み合わせが日本らしくなくて何だか現実感が沸かない。
「探してきたぞ」
そこへ、背後から拓海の声が届く。
最初に部屋に駈け込んで来た赤也程ではないにしろ、拓海の声にも緊張が滲むような硬い響きがあった。
「一体何があったと言うんだ?」
十夜と似たような心境なのか、恐らく事情を説明されずに招集されたらしい祐一が、拓海の背後から姿を見せる。
「この洋館、3階より上にはどこから上がるんでしょうねぇ~。というか、キッチンとか、どこなんでしょう~。ボクたち、ドコで料理すればいいんでしょうね~」
散策途中だったせいか、雅臣が緊張感のない声でそう言いながら広い部屋の中に入ってきた。
「いや、雅臣、悪いけどソレは後だ。ココ、やっぱ何かあるかも知れないぞ」
周囲を警戒するような険しい様子のまま、赤也はそう言うと全員を手招くような仕草を見せる。
まるで少しでも近くに居た方が安全だとでも言いたげだ。
「ガラス張りのこの部屋は、危険じゃないか?」
拓海までもがそんなことを言い出したせいで、十夜はいよいよ何事かと同じ心境の祐一を視線を交わす。
「あの~、何かあったんですか~?」
雅臣の暢気な声が場違いに思える程、確かに薄暗い洋館と暗い森は何かあると言われても納得出来る雰囲気を醸し出している。
しかし、赤也と拓海がこれほど険しい空気になるとは、一体何事だと、全く状況を把握できていない十夜は疑念と不安が募るだけだった。
「…森にさ、何かいるっぽいんだよ」
相変わらず視線は外に向けたまま、赤也が重々しい口調でそう告げる。
「それも、割と近い場所にいるみたいでな。荷物を運んでいる時、気配を感じた」
赤也同様、神妙な声でそう言ったのは拓海だ。
確かに、仮に何かが森に潜んでいるとして、外に出ていた赤也と拓海ならば他の誰よりもその存在に気付けただろう。
「成程…やはり、ここはいわくつきの場所であったか」
祐一はそう言いながら、口の端に笑みを浮かべた。
普通は逆の表情になりそうなものだが、ホラーが得意と公言するだけあって、祐一は余裕の笑みで見えもしない森の奥に視線を巡らせる。
「何でそこで笑えるんだ…」
いわくつきという言葉を歓迎するような祐一の様子に、十夜は呆れた視線を向けた。
普通に考えて、何かが起こりそうだというような場所で、それを歓迎するのは正常ではないというのが十夜の心境で、まだ警戒心を露わにしている赤也や拓海の態度の方が共感できる。
「何にしてもさ、一緒にいた方が安全だろ?だから、こうやって集めたんだからさ」
一緒にいれば大丈夫だと、赤也が友人たちに笑顔を見せた。
「…だといいがな」
十夜は普段通りの相手を馬鹿にした様子でそう言って肩を竦めては見せるが、内心では少しばかり祈るような気持ちで、何も起こらなければいいがと考える。
自分では何かあっても対処が出来ないと理解している上に、普段なら見た目はともかく頼りになるハズの人物をアテにするわけにもいかないと、こっそり瑞貴を窺った。
幅広い意味で瑞貴の方が十夜よりもあらゆる事象に対処できるし、余程安心な存在だと知ってはいるが、少なくとも万全とは言えない今の状態で、少しでも負担になることはさせたくないと思うくらいには、十夜にとって大事な相手なのだ。
「…あのね…雰囲気盛り上げてるところ、悪いんだけど…。ここ、山の中でしょ?野生動物くらい普通にいるんじゃないの…?」
瑞貴は刻一刻と暗くなっていく外を目を凝らして見ていたのだが、何も見えそうにないと諦めたのか友人たちの方に視線を向けるとふわりと笑った。
こういう時、穏やかに微笑む瑞貴の存在は、心を落ち着かせるというか、妙な安心感をもたらす。
慌てるでも空気に呑まれるでもなく、当たり前のことをただ当たり前に言っただけで、言われてみればそうだと十夜だって納得出来る内容だ。
「…あ…まぁ…そう言えばそうだよな…熊くらいいるかもしれないよなぁ…」
言われて初めて気づいたというよりは、やっぱりそうかというような苦笑で赤也がそう言う。
その様子は、初めからその可能性は把握していたというような様子で、そこで十夜はもしかして担がれたのだろうかと首を捻った。
「…まさか、貴様らはただ脅かそうとしただけか…?」
またからかわれたのかと、十夜は沸々と湧き上がる怒りを抑えるようにして、冷やかな声でそう言って赤也と拓海を交互に見る。
もしハメられたのだとすれば、仕掛け人はこの2人だけだろうというのは、他のメンバーの反応で簡単に察せられた。
そもそも打ち合わせる時間があったのは、赤也と拓海だけのハズだ。
「いや、まぁ、何かの気配を感じたのは事実なんだけどさ」
誤魔化すような笑みを浮かべると、赤也は諸手を挙げてそう白状する。
その様子だけで、少しばかり面白がって煽っただけなのだと、あっさりと知れた。
「十夜は、素直だよな…。それに引き換え…からかい甲斐がない奴だな…」
苦笑交じりに種明かしだとばかりに拓海はそう言って十夜に肩を竦めて見せた後、1番怖がってくれそうな外見に反して冷静すぎる瑞貴にも苦笑する。
「…もし、仮に何かがいたとして、僕が気付かないと思うの…?雅臣だっているんだし…」
からかい甲斐がないと言われた瑞貴は、あっさりとそう指摘して微かに笑う。
赤也や拓海は、シークレットサービスとしての訓練を受けているので、危険回避のための状況把握能力や察知能力に優れていて当然なのだが、シークレットサービスを必要とする環境にある瑞貴は瑞貴で、察知能力が磨かれている節がある。
雅臣はと言えば、別にそういう訓練を受けているわけではないのだろうが、どこかぼんやりした性格に似合わず野生の嗅覚に近い感じで常人が気付かない部分を察知する敏さを持ち合わせているので、本当に危険な何かが潜んでいるとすれば気付かないわけがないというのが瑞貴の指摘だった。
「でもさ、瑞貴なら、もっとノってくれると思ったんだよな、オレは」
計算外だとでも言わんばかりに、赤也がどこか不満そうに口を尖らせる。
大人しそうな見た目の割には、瑞貴はこういう悪い冗談にあっさり合わせて煽ってくるような、割と愉快犯の気質なので、今回も合わせてくれるのではというのが赤也の希望的観測だったらしい。
「そういえば、貴様が悪乗りしないのも珍しいな…」
そもそも、この洋館を前にした時、過去に事件があったとうっかり十夜を信じ込ませかけたのは瑞貴だという事実を思い出し、十夜はしみじみとした口調で言った。
赤也の言う通り、確かに瑞貴なら、上手に話を合わせて煽るくらいは出来るだろうし、むしろ喜んで実行しそうだ。
「…だって、僕たち、今日はココに泊まらないといけないんだよ?本気で怖がらせるのはマズイでしょ…?」
少し困ったような、何とも言えない表情で瑞貴は言うと、同意を求めるように友人たちに視線を向ける。
「何も知らない人間が見たら1番怖がってくれそうな外見の人間にそう評されるのは、妙な心境だがな」
最初から欠片も怖がっていない祐一は、瑞貴の言葉に少しだけ可笑しそうに笑って見せた。
「そうですよねぇ、そう見えますよね~。大丈夫ですよ~瑞貴さんはボクがちゃんと護りますから~怖かったら言ってくださいね~」
いつもながら発言の一部分だけに反応し、ややズレた言葉を付け加えながら雅臣が妙に自信たっぷりに宣言する。
恐らくその自信に根拠はないだろうと思わせる軽妙な雰囲気と、同時にそもそも怖がってなどいない相手に向ける言葉としてかなりズレている内容に、友人たちは自然と小さな笑みを浮かべていた。
しかし、雅臣のこの口ぶりでは、保護対象が1人しかいないように思える上に、そもそも最終的には雅臣よりも余程危機的状況を乗り切れそうな、本当に何かが出て来た場合には間違いなく頼りになる側の人間に対し、よくそこまで言えるものだと思ってしまう。
「瑞貴がちょっとくらい怖がるフリしてくれたら、いい感じに煽れたと思うんだけどな、俺も」
結局のところ、拓海も瑞貴は一緒に悪乗りする側だと思っていたらしく、やれやれと人の悪い笑みでため息を零した。
「でも、僕が仮に本気で怖がってるように見えたとして、困らない?悪いけど、怖がるフリをしたところで、演技だって見破られない自信はあるよ…?」
瑞貴はあっさりとした口調でそう宣言すると、少しだけ悪戯っぽい笑みで笑って見せる。
その言葉に、十夜は少しだけ、本気で悪乗りした瑞貴にそういう態度を取られることを想像した。
それでなくても先ほどの不調で心配しているというのに、重ねて見た目通りの小動物的に怯えられたりした日には、少しでも安心させようと十夜は間違いなく本気で心を砕くに違いない。
むしろ、怯えている様子に居た堪れなくなって、不安を少しでも解消させたいと奮闘しながらも、全く功を奏しないで自己嫌悪する自分まで、あっさりと想像が出来てしまうところが少し哀しい。
「…確かに、精神衛生上かなりよろしくなかろうな…」
十夜同様、冷静にその状況を分析したらしく、祐一が重々しい口調でそう言った。
つまり、今回、悪乗りせずに軌道修正を計ったのは、適切な判断だと評価せざるを得ない。
その証拠に、赤也と拓海はそこまで考えていなかったのだろう、目から鱗という様子で顔を見合わせている。
「皆さん~とりあえず、食材とか持って、移動しませんか~?こんな場所で灯りつけたら、虫とか集まっちゃいそうですし~、上の階でも行きませんか~?」
会話がひと段落した空気を悟ったのか、雅臣がのんびりと話題を変えた。
確かにそろそろ外は薄暗いを通り越し夜に近い。
薄暗さに目が慣れている今だから、それなりに近い距離にいる友人たちの表情が解るという程度で、例えば何か作業をしようと思ったならば暗すぎる。
だからと言って、わざわざこんな広すぎる部屋で灯りを点けても、はっきり言って勿体ない上に、一面ガラス張りの場所で灯りなんて点けたら、雅臣の言葉通り虫たちが群がってくるに違いないのだ。
いくら涼しい山の中とはいえ季節は夏で、山の中とも言えば虫が多いのは当然で、今現在煩わされていないのは、恐らく先ほどまでの土砂降りの雨と、まだ灯りを点けていないという相乗効果があるだけだろう。
「そうだな。裏口までほとんどの荷物は持ってきてあるからさ、手分けして上に運ぼうぜ」
完全に真っ暗な廊下を指して、赤也がそう言った。
悪ふざけをしている間に、完全に暗くなってしまい、窓に面している場所はともかく屋内ともなれば光源がなければ何も見えないくらいになっている。
「…暗いな」
コレは何にもぶつからずに移動するのは至難の業だろうと、十夜は素直な感想を口にしてほぼ何も見えない廊下に視線を向けた。
「ボク、夜目は利く方なんで、大丈夫ですよ~。何ならボクが往復して運びますから、皆さん、上に行ってても平気ですよ~?」
明るい声でそう言うと、雅臣は真っ暗に見える廊下に向けて歩き出す。
本人の言う通りそれなりに見えているのか、危なげない足取りで進んで行った。
「オレも感覚で解るし、一緒に荷物運ぶかな。皆は上先行ってていいぜ?」
同じように明るく言うと、赤也もさっさと部屋を出て行ってしまう。
暗い中でも行動できるというのはある意味スゴイのだが、そのスゴイ人材がそろって去って行った場合、残された人間はどうしろというのだろうかと十夜は呆れ交じりに溜息を零す。
「じゃあ、俺が先導しようか?」
どうやら拓海もさっさと廊下の向こうに消えた友人たち同様に行動は可能なのか、残された人間に向けて必要だろう?と問いかけるような視線を向ける。
「…拓海も手伝ってあげていいよ?その方が早いだろうし、僕も平気だから…」
けれど、拓海による先導は不要だと柔らかな声で言ったのは瑞貴で、残された十夜と祐一を安心させるように仄かな笑みを見せた。
「そうか?それじゃ、先に行っててくれ。灯りもすぐに持って行くからな」
拓海はそう言うと、先導の役目を瑞貴に任せてさっさと先に行った2人を追っていく。
「…俺の記憶が確かなら、貴様はさっきまで寝てたはずなんだが、構造とか解ってるのか…?」
解らないのに、どうするつもりなのかと十夜は一体コイツは何を考えているのかとでも言いたげに呆れた声で瑞貴に問いかけた。
「…大丈夫だよ」
それでも、瑞貴は穏やかに微笑んだままで、問題ないとあっさり頷くと、元々自分が横たえられていた長椅子の横に置かれたショルダーバックを手に取る。
それは、恐らく薬が入っているのだろうからと、十夜が車から持ち出したものだった。
瑞貴は肩からそれを斜めにかけると、手探りで中なら小さな何かを取り出して手元で何やら操作をする。
途端に、青白い光が灯って、暗闇に慣れた目には眩しすぎて、十夜は思わず目を細めた。
「じゃあ、行こうか」
眩しい光の向こうで、瑞貴がふわりと笑う。
そのまま十夜と祐一を手招くと、先に姿を消した友人たちと同じように廊下へと出ていく。
青白い光は、本来は非常灯なのか、目が慣れてしまえばそんなに明るいものではないと察せられたし、照らせる範囲はごく僅かだ。
例えば正面に向けたとしても、見えるのはせいぜい数メートルくらいのもので、瑞貴はその灯りを自分の前に向けるのではなく、後ろを歩く2人の足元を照らすように向けていた。
先導する立場の瑞貴は、ほとんど手探りに近い状態で進んでいるハズなのに、まったく危なげなく、それどころか微塵も迷いなく先へ進んで行く。
構造を知らないはずなのに、廊下の分岐からあっさりと階段へ進み、2階へと上っていった。
「…なんで貴様は階段の場所が解るんだ…?」
誰かから教えられたわけではないのは、ずっと行動を共にしていた十夜が誰よりも知っている。
だから、自然と、何故道が解るのかという疑問が生まれた。
「え…洋館なんて、ドコも似たような造りじゃないの?十夜、僕の実家知ってるでしょ?」
十夜の問いに足を止めると、瑞貴はくるりと振り返ってきょとんと首を傾げてみせる。
確かに瑞貴の実家は、かなり大きな洋館だと記憶しているが、果たして造りが同じようなものなのかというところはさすがに十夜にはわからない。
「…要するに適当に進んでるってコトは解った…」
どうやら深く考えずに自宅の感覚で進んでいたのかと、十夜は軽く脱力した。
洋館に縁のない十夜にはさっぱり理解出来ないが、もしかすると本当に洋館には何等かの共通点があって、瑞貴はそれに沿って行動しているだけなのかもしれない。
何にせよ、今出来る事は、大人しく後をついて歩くだけだった。
そのまま進んで行って、2階で部屋を探すのかと思いきや、瑞貴はさらに奥の3階へ続く階段を見つけ出したらしく、そのまま登っていく。
「…2階でいいのではないか?何故3階へ向かう?」
十夜の後ろから、祐一が不思議そうな声でそう訊いた。
そもそも、先ほど、雅臣と祐一は2階の散策をしていたはずで、その時には階段を見つけられなかったのか、雅臣がどこから上がるのだろうというようなことを言っていたような気もする。
「高い場所の方が、雲が晴れたら星が綺麗かなって思ったんだけど。どうせ非日常を楽しむんだったら、満喫する方がいいでしょ?」
階段を進みながら、瑞貴は振り返りもせずにそう言った。
「…見えればいいけどな…」
あれだけ大雨が降った後で、果たして空が拝めるんだろうかと十夜は苦笑しながら瑞貴の後を追いかける。
そのまま3階の到着し、適当な部屋のドアを開ければ、どういう偶然か、大人数向けではなく1家族くらいの人数向けのダイニングルームのような部屋だった。
1階の最初の部屋が、客を招いての団欒の場所だとするなら、こっちは家族だけで過ごすような、無駄に華美なところのない落ち着いた雰囲気の部屋で、確かに下手に豪華な部屋よりはこの部屋の方が余程寛いで過ごせる気がする。
確かに、行動の拠点にするならばちょうど良さそうな部屋で、晩餐のためのダイニングテーブルのセットと、応接のソファのセットが並ぶこの部屋は1階で最初に過ごした部屋のミニチュア版という印象だ。
流石に1面全部ガラス張りではないが、大きな窓と、そこそこ広そうなバルコニーが見えた。
3人がその部屋に辿り着いて間もなく、クーラーボックスを抱えた雅臣が姿を見せ、さらに続いて赤也と拓海もそれぞれに荷物を持ってきて、そこでようやく昼間購入されたアウトドア用の灯りが灯される。
夜の野外を想定して購入された灯りは部屋を照らすのに十分な光量を備えており、瑞貴が持っていた非常用としか思えない青白い光とは違って、温かみのある光を放っていた。
アウトドア用の形状にさえ目をつぶれば、温かな光は洋館の雰囲気に合っていて、自然と寛ぎムードが生み出される。
その部屋がダイニングだったことが幸いして、すぐ隣の部屋は当然のようにキッチンだった。
晩餐用にシェフが常駐する厨房という雰囲気ではなく、洋館の持ち主が道楽で料理でもやってみるという体裁の、ごく普通のキッチンに近い造りで、さすがにコンロや水道は使えないだろうが、持ち込んだアウトドア用品を使えば普通に料理は出来そうだ。
その場所を確認するなり、料理担当と自負している祐一と雅臣はクーラーボックスと調理機材を次々に運び込み、灯りも1つ持って姿を消した。
「そういやさ、2階から3階に行く階段トコさ、何か変わった造りしてたよな」
調理担当が姿を消し、適当に持ってきた荷物の整理をしながら赤也がふと思い出したように口を開く。
といっても、持ってきた荷物の殆どが食材で、それ以外に持ってきたものと言えば、一応購入されたキャンプ道具くらいで、たいして整理するものはない。
「そうなのか?」
十夜はただ先導されるままに着いて行っただけなので、実のところ道のりがよく解っておらず、変わった造りだったのかと首を傾げた。
「普通はあんな場所に階段は作らないだろう。というか、普通にしていたら見落としそうな場所だったぞ」
苦笑交じりにそう言ったのは拓海で、普通にしていたら見落とすような階段というのは確かに変だと十夜は妙に納得する。
「…そんなに変な造りだったのか?」
薄暗い中、足元だけを照らされて進んだ十夜には、赤也や拓海が言うような部分に気付ける程、構造を把握しながら歩いたわけではないので解らないが、それでも2人がそこまで言うなら何かが変なんだろうと思うしかない。
「だってさ、普通なら、部屋がある場所に階段があったんだぞ?オカシイだろ、普通に考えて」
そう説明したのは赤也で、言外にこの洋館を設計した人間は何を考えていたんだろうとでも言いたげだ。
「後から増築したとか、もともと隠し階段だったとか、そういうモノだろうな、たぶん。俺たちも雅臣の後について行かなければ、普通に見落としたかもな」
拓海をしてそこまで言わせる程、普通じゃない場所に階段があったのかと、友人の言葉を聴きながら十夜はしみじみと、あの学園からの課題はロクな物じゃないなと実感していた。
「さすが、学園側が用意した肝試し会場なだけあるな」
キッチンに引っ込んでいたはずの祐一が、いつの間にやらこちらの部屋に戻ってきていたらしく、しみじみとした口調でそう言う。
「あれ?料理してるんじゃなかったのか?」
隣のキッチンを指し、赤也がおや?と首を傾げる。
「それが、雅臣が夕食は林間学校の醍醐味のカレーだと言いだしてな。ついでに自分が作りたいというので、任せて来た」
2人がかりで作るものでもないと祐一は肩を竦めて苦笑した。
「…林間学校じゃないだろ」
見えもしない隣のキッチンの様子を思い浮かべつつ、十夜は呆れ交じりにそう呟く。
そもそも、ただの林間学校ならどれだけ気が楽かとか、どうすればそういう発想になるのかと通常運転でドコかズレた思考の友人に苦笑する。
キィ…と何かが軋むような音に視線を向ければ、広いバルコニーへ続く外開きの扉を開けて立つ瑞貴が見えた。
「開けたら虫とか入ってくるんじゃないのか?」
吹き抜ける夜風の涼しさが部屋を抜ける中、拓海は荷物整理を終えて暇になったのかバルコニーの方へと歩いて行く。
雨も上がってそれなりに時間が経っており、いつの間にか空には雲がかかっていない。
高い位置にバルコニーがあるせいか、鬱蒼とした森の木々に邪魔されることなく空を仰ぐことが出来た。
「…森があるからかな…。全然灯り、見えないよね」
虫云々はさらりと聞き流したのか、瑞貴はそう言って森の向こうを指す。
夜だというだけでなく、手入れのされていない木々に隠れているせいで、通って来た道は当然見えない。
けれど、森を抜けた先にあった、こじんまりとした田舎の農村といった体裁の村の灯りすら、この場所には届かないようだ。
目を凝らせば少しくらい灯りが見えても良さそうなのだが、村があるハズの方向は真っ暗だ。
「…街灯、ないんじゃないか?」
遠くに視線を向けた瑞貴の横に立ち、同じように遠くを見つめた後に拓海は少しばかり意外そうな声でそう言った。
家の中の灯りが見えないのは、雨戸を閉めていたりカーテンを閉めていたりという状況を考えれば、まぁ解らなくもない。
それでも何の灯りも見えないのは、さすが山奥の田舎、夜に出歩く人間を想定していないのか、本当に街灯すらないのかもしれない。
その言葉に、他の3人も顔を見合わせるとバルコニーに近づいて、外の景色に視線を向けた。
地上は本当に真っ暗な森に囲まれている様子しか見えず、天上は星がチカチカと瞬いている。
長閑な光景は、確かに夏のアウトドアを彷彿させ、洋館という場所に居ながら、雅臣の言うところの林間学校という単語に少しだけ納得出来そうだった。
しばらくのんびりと景色を眺めていると、不意に隣の部屋とのドアが開く音がする。
「あれ?皆さん、何してるんですか~?晩ご飯出来ましたよ~?」
揃ってバルコニーから外を眺める友人たちの様子に雅臣が目を瞬かせながらそう言った。
手には深い鍋を抱えており、スパイスの香りが広がってくる。
「…いくらなんでも早くないか?」
まるでレトルト並の速さで完成したらしいカレーと思われる鍋を指して、十夜は目を丸くした。
雅臣と祐一が最初にキッチンへ姿を消してから、まだほんの30分も経過していない。
祐一がこっちの部屋に姿を見せてからは、多めに見積もってもまだ15分も経っていないはずだ。
「ご飯なんて10分あれば炊けますよ~?」
別に早業ではないと、雅臣は笑いながらテーブルの上に大きな鍋を置いた。
本人が祐一に宣言した通りどう見てもカレーなのだが、仮にも煮込み料理がこんなに早く出来るものかと少しだけ疑問だ。
「…野菜に火が通らないのではないか…流石に、あの携帯用コンロの火力ではたかが知れているだろう?」
普段の家庭用コンロとはわけが違うと、料理に精通している祐一は首を傾げながら鍋を覗きこんでいた。
「大丈夫ですよ~。バッチリですから~。いやぁ、圧力鍋って便利ですね~」
問題ないと大きく頷き、雅臣は再びキッチンに姿を消す。
恐らく他の物を用意しに行ったのだろうが、雅臣の割には手際が良すぎると十夜はこっそり苦笑した。
「…そんな物、買ったか…?」
料理に関する物はすべて一緒に揃えたはずの祐一は、圧力鍋などいつ購入したのかと記憶を辿るように首を傾げている。
というより、携帯用コンロで使用できるんだろうか、というのがそもそも傍で聞いていた十夜の純粋な感想だ。
「ほらほら、皆さん、席に着いてください~」
再びキッチンから姿を見せた雅臣は、洋館らしい料理などを乗せて運ぶ台車を押して戻ってくる。
よく飲食店などで見かける台車に近いが、洋館の雰囲気に合うように装飾の施されたそれは、高級レストランやホテルで見かける台車に近い。
「どこにあったんだそんなもの…というか、最初からソレで全部運べば良かっただろうが…」
音も立てずに台車を押してくる雅臣に、十夜は呆れ交じりにそう言った。
鍋だけ手で運んでくるくらいなら、最初から全部台車に乗せれば良かったのではと指を指して指摘する。
そして台車には、驚くべきことにきちんとした食器に盛り付けられたサラダやらヨーグルトらしきものやら、果ては果物まで盛られているのだが、食器といい食材といい、いつの間にそこまで用意していたのかと我が目を疑うレベルだった。
「あ、食器や台車は元々、隣のキッチンにあったものですよ~。埃もなかったですし、ちゃんと洗ってから使ってますから、安心してください~」
もしかすると、肝試しを仕込んだ学園側が最低限掃除くらいはしておいてくれたんじゃないでしょうかと雅臣はのんびりした口調でそう種明かしをしながらも、テキパキと食卓を整えていく。
本当にドコから出してきたのかと思うような、きちんと磨かれたシルバーの食器を並べる様子を見守りながら、既にドコからツッコミを入れていいのか分からなくなりつつある十夜はやれやれと肩を竦める。
もはやアウトドアらしさの欠片もなくなった食卓は、洋館を訪れた目的をすっかり忘れさせるような状況で、普段とは違う場所でありながら学園敷地内で皆で仲良くレジャーシートを広げる昼休み風景を彷彿させた。
いつも通りの他愛のない会話で盛り上がり、夕食などを一通り終えて思い出したかのように時間を確認すれば、夜の8時になろうかという時間だ。
当然のように後かたずけを一人で買って出た雅臣以外は、いよいよ肝試しという学園からの指令を実行する準備に入っていた。
といっても、あくまでゲーム感覚で、2人1組になって1階まで行き、1周回って戻ってくるというだけの適当な内容だ。
「…ソレで、何でハンディカメラなんてものがあるんだ…」
いざ打ち合せという雰囲気の中、最初に口を開いたのは十夜だった。
何時の間に荷物に紛れ込ませていたのか、肝試しの打ち合わせのためにダイニングテーブルを囲む彼らの目の前には、お手軽ホームビデオ用の小さな録画機材が鎮座している。
確かに学園側からの指令は、肝試しとレポートだが、まさか紙のレポートではなく、映像でのリポートの方を指していたのかと、軽く表情を引き攣らせる。
「いや、ほら、ちゃんと肝試ししてきましたって証拠映像が必要だろ?折角だから面白おかしい映像にしようぜ」
どうやら最初からカメラという仕込みを利用する気だったらしく、赤也が実に楽しそうに笑う。
「肝試しに面白おかしくしたら、学園側からリテイク出ないか…?」
その横からカメラを指して拓海が真剣な表情でそう呟いている。
「暗すぎても映像がちゃんと撮れないだろうな。照明も考えねばなるまい」
さらに祐一までもが考え込むような様子でそんな事を言い出した当たりで、少しばかり肝試しの打ち合わせの雲行きが変わってきた。
十夜はここまでの流れで、何となく嫌な予感を感じ、それとなく友人たちの様子を窺ったが、普通はもう少し身構える肝試しという状況を完全に楽しんでいるような雰囲気に包まれているのを見て、所詮あの学園の生徒だなという呆れ交じりの感想に至ってしまう。
というよりも、ホラーが得意な祐一だけでなく、実際にお化けに遭遇したら撃退すると言い切った赤也や拓海も、根本的に全く警戒していなければ怖がってもいないので、大前提としてハラハラドキドキの肝試しが成立するハズもないのだ。
「…それじゃ、主演を考えないといけないよね。臨場感、大事でしょ?」
もはや完全な肝試しではなく、ヤラセの肝試し映像の打ち合わせと化してきた雰囲気で、瑞貴は小さく首を傾げて友人たちを見渡しながら、思案げな表情を浮かべている。
臨場感という単語を出している時点で、完璧にヤラセ映像にする気のようだ。
「あー…だったら、1階の部屋、荒らしてくるか?アレじゃ綺麗すぎだろ?」
肝試し番組制作モードに切り替わった打ち合わせと化し、赤也は真面目な表情でそんな提案をする。
言われてみれば、肝試しにお誂え向きなのは立地条件だけで、中はつい昨日まで誰かが住んでいましたと言われても不思議ではない片付きっぷりだ。
本来なら長期間放棄されていれば、埃くらい溜まっていそうなものなのに、その痕跡すらない。
やはり学園側が事前に準備を整えたとしか考えられなかった。
もっともその綺麗さがホラーといえばホラーなのだが。
「順路も予め考えた方が良さそうだろうな。あたかも玄関から始まって、奥へ進んで行くシチュエーションであるべきだ」
そもそも玄関は開かなかったのだが、それを横に置いて拓海はそう言うと構造を思い出すように視線を宙に向ける。
どのように進めば肝試しとして臨場感があるのか、要するにリポート映像としていいものが出来上がるのかを考えているようだ。
「いや、少し待て。学園からの指令だと全員が肝試しを体験しなければいけないのではないか?」
祐一は、思い出したようにずっと預かっていた学園からの指令の封筒を取り出すと、中身を取り出した。
そこには、みんなで仲良く肝試しという、割とふざけた文章が躍っている。
学園側もまさか完全なヤラセ映像を持ってくるとは予想外だろうが、やはりそれ以前に学園側の頭の中が狂っているとしか思えないというのが、既に本気で取り組む気のなくなった十夜の心境だ。
「…じゃあ、3組順番にカメラをバトンタッチしていって、1組目から2組目、って進んで行く度に少しずつ配置を変えたり演出を加えたら…?本当に何かあったように見せれば、学園側も満足するんじゃないかな…」
代替え案とばかりに瑞貴から提出されたのは、人為的にポルターガイストを起こそうというようなもので、先に肝試しを終えた組は部屋で待機と見せかけて仕掛け人に回るというようなものだろう。
既に話半分で聞き流している十夜は、よく咄嗟にそんなくだらないことを思いつくものだと友人たち全員に対して呆れていた。
「んじゃ、当然トップバッターはオレと拓海だよな」
最初に軽いノリの肝試し映像を自作自演で撮った後、自然に仕掛け人に回れるのは自分たちしかいないとでも言うように赤也が妙に自信たっぷりに頷いて見せる。
「そうだな。で、2組目は演技力の問題で祐一と十夜だろうな。ごく普通に回った後、1組目の俺たちと話して、後からジワジワと来る感じの怖さを演出してもらおう」
既にヤラセは完全に規定事項らしく、拓海までもが真剣に考えているようで、既にディレクター兼出演者、よくあるドッキリ映像作成の様相だ。
「僕と雅臣が最後?最初から怖がればいいの?それとも途中で何か起こるの?」
既に役者モードに切り替わっているのか、瑞貴は微かに笑って友人たちに視線を向ける。
演技力という意味でも、肝試し映像という意味でも、確かに1番絵になるのは瑞貴だろうが、完全にディレクターから指示を受ける役者のような舞台裏では、後々映像を見る人間が可哀相だと十夜はやや斜め上の感想を抱く。
ヤラセの肝試しが普通に無事で済むのなら、世の中のホラー映画のうちモキュメンタリーホラーというジャンルは完全に衰退するというか、そもそも破綻するジャンルだろう。
この場合、このメンバーでモキュメンタリーをやるなら、当然ハプニングが必要なのだ。
そもそも、ドキュメンタリーではなく最初からモキュメンタリーを作ろうとしているところからして、さすが志貴ヶ丘学園高等部のトップ集団と言うべきか、ただの愉快犯一同と言うべきかは、正直なところ判断に迷う。
「…最初から怖がってると視聴者が疲れるだろうけど、その方が映像的には合うよなぁ…」
赤也は割と真剣味のある様子でそう言って、ディレクターよろしく役者を隅々まで観察している様子だ。
今まで同様全力で聞き流そうと冷めた視線を向けていた十夜だったが、ふと引っかかる単語があって思わず目を瞠る。
「ちょっと待て、赤也っ!何だその視聴者ってのは!」
既に完全に趣旨が変わっていることに、十夜は全力で吠えた。
本当にモキュメンタリーを撮る気なのかと友人たちを睨み付ける。
「そりゃ、提出先は志貴ヶ丘学園高等部の理事長室なんだし、立派な視聴者だろ?つーか十夜も一緒に考えようぜ?もうココにいる時点でオレたち一蓮托生じゃん」
出来る限り我関せずを貫きたい十夜に対し、カラリと笑って赤也は協力を求めた。
皆で取り組んだ方が楽しいと、しっかり顔に書いてある。
「だったら、俺から1つ言わせて貰うとな…、このエセ小動物の演技力が折り紙付きだって、その視聴者とやらは熟知してるんだろ?ハプニングがあってから怖がろうが、最初から見た目の印象通りに怖がろうが、どっちにしても作り物だってバレるだろう…」
ホラーの主演というかヒロイン役として、ある意味では完璧な人材と言える瑞貴を指し、十夜は深い溜息と共にそう告げた。
何も知らない一般市民が視聴者ならば、確かに完璧な主演で完璧なヒロインなのだろうが、瑞貴の人と形を知っている理事長一味を視聴者と考えるならば、完全なミスキャストにしかならない。
何故なら、理事長一味は、見た目通りの中身でないことを、下手をすれば十夜以上に知っているのだ。
それなら、いくらモキュメンタリーホラーとして完璧な映像が撮れたとしても、理事長一味には明らかヤラセと瞬時にバレてしまうキャストを主演に据えても完璧すぎて逆に嘘くささが際立つというのが十夜の考えだった。
「…じゃあ、演じてないような、逆の意味のリアリティを出せばいいの?僕自身も責任取れなくていいなら、ソレも可能だけど…」
少しだけ考え込む素振りを見せた後、瑞貴はあろうことかそんな提案をしたかと思うとずっと手元に置いたままのショルダーバッグからいくつかの薬を取り出して見せる。
そのうち数種類は十夜が既に見たことのある物だったが、3つ程初めて見る物が混ざっていた。
「…その薬の山は何だ…?というか、また増えてはいないか…?」
その薬の数々を見て、祐一は以前も聞いたような呆れ交じりの声をあげる。
「え?増えたっけ…?」
瑞貴はこちらも前に聞いたような、当人のくせにどうでも良さそうな口調でそう言うと、わざとらしく苦笑して見せた。
「貴様ら、そのやり取りは一体何回目だ…。で、ソレは何に使うんだ?用法容量はちゃんと守れよ?」
ここまでテンプレという流れの見本のような会話に、普段と同じようにやはりテンプレなツッコミを入れた後、十夜はわざわざ取り出された薬を指して用途を尋ねる。
用法容量を守らなければ、それなりに大変なコトになると知っている十夜を始めとする友人たちの前に、わざわざ出して見せたのには何かしら意味があるのだろうと勝手に推測した。
「薬の調整中で、効き過ぎて大変って言ったよね…?用法容量を守ったところで、色々と弊害あるから。だから寝る前は遅いにしても、肝試し終わってからにしようと思ってたんだけど、逆の意味のリアリティなら出るかなって」
発言者である瑞貴が悪戯っぽい笑みを浮かべてサラリとした口調で言っため、うっかり聞き捨てならない内容が混ざっていると気付きづらいのだが、用法容量を守っても云々というくだりは、間違いなく聞き流してはいけない内容だろう。
「…おい。弊害って、あれ以上何があるんだ…」
地を這うようなという形容が似合うような怒気を含む低音で、十夜は瑞貴を思い切り睨み付ける。
既に1度は変調をきたした状態だというのに、更にまだ何かあるのかと、凄味のある表情を向けた。
そんなことで堪える相手ではないと知っているが、それでも睨み付けずにはいられないのが十夜の哀しいところだ。
そして、この怒りというか不機嫌な様子は、そのまま相手への心配の現れなのだが、恐らく親しい人間にしか伝わらないところも、十夜の不器用というか憐れなところである。
「…ええと、効き始めると、思考がかなり不明瞭になったり…。だから、そのうち強制的に眠らされるんだけど、起きていようって考えるに至らないとか、そもそも効き始めた辺りから記憶も残らないっていうか…」
弊害の内容を説明する瑞貴の言葉を聞いているうちに、ただでさえ険しかった十夜の表情はますます険しくなっていく。
その様子に、説明を求められたから説明をしているはずの瑞貴は、やっぱり怒るよねとでも言いたげな、誤魔化すような曖昧な表情で十夜から視線を逸らして行った。
「貴様、実は馬鹿なんだろうっ!?」
闇夜に劈く大音量で、十夜は盛大に怒鳴る。
外でバサバサと野鳥が飛ぶというようなマンガみたいな出来事はさすがに起こらなかったが、空気を震わせる大音量であることには違いなかった。
全身全霊で怒鳴ったせいで、一気に消耗した感じがするが、恐らく怒鳴られた方は大して気にしていないのだろうと思うと、さらに一気に精神力と体力を持って行かれたような気になる。
「瑞貴さんが馬鹿だったら、1度もテストで勝ててないボクたちはどうなっちゃうんですか~?というか、肝試しの打ち合わせをしてたんじゃないんですか?」
そこへ後片付けを終えたらしい雅臣が、タイミング良くというか悪くというか姿を見せた。
「あぁ、肝試しなんだが…3組に分かれてドキュメンタリー風に撮影することになってな」
打ち合わせと言いながら、その実8割くらいがくだらない内容だった会話の内容を要約し、祐一がザックリと説明をする。
その後、モキュメンタリーホラーであるような趣旨を、赤也と拓海が重ねて言い含めた辺りで、雅臣は全容を理解したらしく、大袈裟に何度も頷いていた。
「それじゃ、出発地点も、ココじゃなくてキッチンの向こうの寝室にしませんか~?どうせなら、先に行った友人たちが戻ってこないから探しに行く、みたいな流れで~」
内容を理解しただけではなく、雅臣はそんな提案までしてくる。
ここまで来ると、十夜はむしろモキュメンタリーホラーを撮ろうという友人たちに呆れている自分の方がマイノリティで異端なのではないかと思ってしまうが、恐らく社会一般的には間違いなく友人たちの方がイレギュラーだと自分に言い聞かせた。
「ソレもイイ案だけど、カメラって1つしかなくないか?」
ダイニングテーブルに鎮座するポータブルカメラは1台で、赤也はソレを指してそう言う。
雅臣の提案の通りに撮るのなら、肝試しを録画するポータブルカメラが最低でも数台必要になってくるわけで、待機場所の映像を撮るのは3組目のカメラで問題ないとしても、どう考えても3台は必要だろう。
「大丈夫ですよ~ちゃんと、ボク用意してありますから~。さっき運んできた荷物の中にありますよ~。ええと、それぞれが持つカメラと、予め寝室に隠しカメラ風に1台で、合わせて4台あればいけますよね~」
会議の様相のダイニングテーブルのイスに腰掛けもせず、雅臣はあっさりとそう言って1度キッチンに引っ込んだかと思えば、手にビニールバックを持って戻ってきた。
中身をダイニングテーブルの上に取り出せば、確かに同じポータブルのハンディカメラがあと3台出てくる。
「用意周到だな」
まるで最初からモキュメンタリーホラー撮ることを想定していたとしか思えない用意の良さを、拓海はたったその一言で片づけてしまう。
普通なら少しくらい驚くような状況でも、普段から驚くことに耐性がつきすぎているこのメンバーは、この程度のことで動じていては身が持たないのだ。
ツッコミ体質の十夜ですら、用意が良すぎて不気味だという捻くれた感想を抱くにとどまった。
「じゃ、ソレで決定だな。ちょっとだけ台本考えようぜ~」
嬉々として赤也はカメラを1台手に取ると、大雑把ながら全体の流れを決めるべく身を乗り出す。
「台本と言っても【コンクエスト】のイベント時程度の、大まかな流れだけだぞ?あまり細かく設定すると、臨場感が無くなるからな」
横から拓海がやんわりと言葉を挟むと、どこからともなくメモ帳とペンを取り出した。
「わかってるって!前置きとして、洋館で肝試しをしに来たグループなんだからさ、オレたち」
赤也は元気よく太鼓判を押すと、どんな流れが面白いかなと言いながら思いつくままに何パターンか挙げていく。
拓海はそれを要約した内容をメモに箇条書きしていた。
そんな様子を横目で見ながら、十夜は呆れる反面、志貴ヶ丘学園に編入する前までの泊りがけの学校行事の何よりも楽しいと感じている自分に気付いて気付かれないように苦笑する。
ただ面倒だと思うだけだった修学旅行や林間学校、スキー合宿などを思い出し、そう言えば自分は今まで1度たりとも友人たちとの宿泊イベントを楽しみだと感じたこともなければ、実際に楽しかったこともなかったのだが、それは要するに、上辺だけの友人イコール所詮ただのクラスメイトでしかないという感情のせいだったのだと気付いた。
十夜がそんなことを考えている間に、どうやらモキュメンタリーホラーの筋書は決まったらしく、出発地点であり同時に今日の宿泊部屋となるらしい部屋へと移動という流れになる。
本当に3階にはベッドルームがちゃんと存在し、ちょうど拠点にしていた部屋からキッチンを挟んでさらに奥に位置していたのには正直驚いたが、雅臣は片づけをしながらたまたま見つけたらしい。
どういう目的で作られた客間なのかはわからないが、1つの小さな談話用の部屋を挟んで左右のドアで行き来出来るような構造になっていて、その2部屋はそれぞれ中から鍵を掛けられるようになっている。
左右の部屋はそれぞれの部屋にベッドが4つずつで、入口は談話用の小さな部屋からのみだ。
要するに直接外の廊下から出入り出来ない構造になっていて、そのためドア上は隣の部屋であるキッチンからそこそこ遠く感じる。
さらにそれぞれベッドルームの脇にシャワールームが備え付けられており、ライフラインが停止しているだろう今は関係ないが、豪勢なホテルの1室のようだ。
シャワールームを覗けば、やはりその部屋からしか行けない構造らしく、廊下に通じるドアはないが、客間を想定しているのならソレも頷ける。
1家族丸ごとくらいの客間でも想定して造ったのだろうかとも思うが、それなら何故キッチンの隣なのかだとか、色々と疑問の残る構造ではあった。
ここでようやく、モキュメンタリーホラー作成する準備が整い、それぞれ簡単な設定を元に行動に移すことになる。
隠しカメラを想定して設置される据え置きの1台は、中央の談話室に置かれた。
簡単な粗筋は、肝試しを目的に洋館に泊まり込んだ高校生グループのうち、腕に覚えのある2人組が散策してくると部屋を後にする。
もちろんその2人組とは赤也と拓海の事で、2人はふざけたドキュメンタリー映像詐欺の、肝試しをしにきたけど何も起こらないので1周してくる内容を面白おかしくふざけながら録画してくる担当だ。
その後、なかなか戻ってこない友人たちを少しだけ心配しながらも、連れ戻す目的で2組目が出発するのだが、あくまでも何も起こらない前提で軽い気持ちで出ていく流れで決定された。
もしかしたら2人が隠れて脅かそうと待ち構えているかもしれないから、逆に脅かそうくらいの、いかにも高校生らしい軽いノリでと注釈がつけられたが、そもそもその2組目の人選は十夜と祐一であり、十夜は素で呆れきっているし、祐一は根っからのホラー好きなので、2人とも完全に演技の必要はない。
そういう意味では、最適な人選と言えるだろう。
そして最後の3組目は、何時まで経っても戻ってこない4人を待っているのが主な役割だ。
あくまでモキュメンタリーホラーを重要視するなら、ココは、洋館に絶対何かあると、最初から怯えてかかってもらう役とそれを慰める役が求められた。
最終的には、どこかのタイミングで4人のうち誰かが悲鳴をあげたり何かしら合図を送るので、そこで追いかけていくという役どころだ。
ある意味で演技力が求められる配役は、消去法であると同時に納得の人選の瑞貴で、適当に考えた洋館のいわくについて隠しカメラの前で語るというストーリーテラーの役も兼ねている。
ついでに、先ほど十夜が指摘した、瑞貴の場合は完璧すぎるからこそ演技だとバレるという点は、用法容量を守った結果服用しなければならない薬とやらで、恐らく自動的に補正がかかるに違いないと片付けられた。
談話室に飲み物のペットボトルやアルミ製のカップを持ち込み、いかにも肝試しのために不法侵入してきた図を整えている間に、瑞貴は十夜と雅臣に迫られて本人の予定よりも早く薬を服用する事になったためだ。
結果的に肝試し実行中の記憶すら曖昧になる可能性もあるとのことだが、モキュメンタリーホラーならばソレも好都合という適当な理由で深く考慮されることはなかった。
作者:彩華