異世界召喚されずに乙女ゲーに組み込まれたようです 12
「―――夢、じゃねえよな」
「夢だったら現実はもっと大惨事じゃないかなぁ?」
急げと慌ただしく川岸に連れてこられた黒と修治は、予想とはかけ離れた光景に思わず夢だと言いたくなった。土手から小川を見下ろした黒猫は、丸い目を更に丸くした後盛大にため息を零す。走るのが楽だからという理由で猫の姿になった黒に合わせて走る羽目に陥った修治も、僅かに弾む息を整えながら思わず自分の頬を抓りたい衝動に駆られたが、何とか思いとどまった。トークアプリで告げられた内容は、もっと危険極まりない状況を示唆する内容だったのはなかったかと修治は思わずスマートフォンからトークアプリを起動させ、綾香から届いた内容を確認する。
『例の新米コンビが闇と一緒に孤立しました。僕たちでは介入することも出来ません』
この文面から、孤立無援の状況に陥ったと推測したのは当然の帰結と言えよう。更にこの場所の闇退治を割り振った側である修治と黒の立場からすれば、闇の潜む場所が水の中であることも自明だ。同僚という立場や兄弟と言う立場から、修治にしても黒にしても、奏多の能力が火となって発現する事や、水とはあまり相性が良くない事は、当然ながら知っている。そこから導き出される結論は、つまり絶体絶命の大ピンチの可能性だ。ましてや奏多の主はただの一般人、潜在能力的には決して悪い数値ではないだろうが、何よりも場数が足りていない。
だから、彼らは急いで現場に急行したのである。迎えに行った陽菜、綾香、そして彼女たちを追った小太郎までもを置き去りにしかねないレベルで急いで走った結果、本当に置き去りにして現場に到着した彼らが目にしたのは、とんでもない光景だった。思わず夢だと思いたくなっても仕方のない、予想から180度くらいズレた状況に、そのまま回れ右をしたくなった黒も修治も悪くはないだろう。
「やっぱり温泉タワシはこうじゃないとダメだよねぇ」
清浄な空気が流れる川の中、土手の近くに置きっぱなしの鞄の上に律儀にネクタイやベストなどを放ったシャツとスカートだけの出で立ちの唯音の姿があった。そんなに深い川ではないので、中に入っても水面は腰くらいまでしかない。文字通りその川の中にいる唯音は、当然ながら全身ずぶ濡れである。しかも、立っている訳ではなく、大きめの体躯のカピバラの上に乗って浮いているという極めて不思議な状況だった。
「…あのさ…ホントに楽しいワケ…?」
水面から顔の部分だけを器用に突きだし、カピバラ姿の奏多は自身の上に乗っている唯音に声を掛ける。まるで亀の親子のように泳いでいるが、重ねて言うがこの川は決して深くない。唯音が普通に立てば腰の辺りまでしか水位はないくらい、浅い川だ。
「温泉タワシを見たら、取りあえず温泉に浮かぶしかないでしょ」
「ココ温泉じゃナイし。ただの温水だってば。アト、また混ざってる。温泉タワシじゃなくて温泉カピバラ」
もはや何処からツッコミを入れたら良いのか以前にツッコミ所しかない発言をした唯音に、奏多は律儀に細かく訂正していく。唯音と奏多がぷかぷかと遊んでいるのは、あくまでただの小川である。どこからどう見ても、例え妄想込にしたところで温泉とは程遠いだろう。
「君たち、何をしてるのかなぁ」
ようやく最初の衝撃から立ち直ったらしい修治が、土手をゆっくりと降りながらそう声を掛けた。その横から不機嫌そうにしっぽを揺らしながら、黒猫姿の黒もゆらりと降りてくる。
「手前ら、何やってやがんだ」
低く地を這うような声が、黒の機嫌をしっぽ同様
如実に物語っていた。
「闇は一体如何したのかな。それと、この季節に水浴びはまだ早いよね、2人とも」
にっこりと笑みを張り付けた修治の方も、危険だと思って慌てて駆けつけてみれば、拍子抜けどころか
巫山戯ているとしか思えない状況に、心配した反動で苛立ちを覚えているようだ。
「闇ならオレが祓ったケド?」
「水じゃなくてお湯だよ~。お風呂の温度。気持ちイイよ?」
即座に、悪びれる様子のないカピバラと唯音からそれぞれ答えがもたらされる。もう安全だから水遊びならぬ温泉ごっこをしても良いのだという子供の主張のような内容に、聞かされた修治と黒は助けに来なければ良かったとかなり本気で思う。
「いいからとっとと上がって来い。手前ら、何考えてやがんだ!だいたい、そこだけお湯にしたところでずぶ濡れで風邪引くだろうが!」
深く溜息を零した後、黒はしっぽと耳をピンと立てて、怒声を放った。見た目は目つき以外は可愛らしい黒猫だが、怒声は成人男性のソレである。かなりの威圧感を伴って放たれた怒声に、カピバラは唯音を背に乗せたまま、ヨイショ…と岸の上に上がった。
「やっぱ怒られたじゃん、ゆいねのバカ」
地面に唯音を立たせた後、自身は人の姿に戻った奏多は、身に纏(まと)う衣類を含む全身から水を滴らせながら不満そうに口を尖らせる。見た目が整った青年であるせいで、文字通り水も滴るイイ男であるが、言っている内容もつい一呼吸前までやっていた行動も、どちらも残念極まりないものだった。
「温泉タワシのクセに水嫌いなんて言うから克服させてあげただけなのに」
唯音は唯音で、制服のシャツやスカート、髪から水をポタポタと落としながら急に自分よりも高い位置に移動した奏多の顔を見て同じく不満だとでも言うように頬を膨らませる。制服のシャツは白く、部分的に張り付いてしまって中の下着が透けていたりもするのだが、当の本人は気付いていないのか隠す様子もない。
「お説教は後回しね。君たち、風邪引くから早く移動しなさい。とりあえず、帝都観光の本社に行くから」
まるで小学生の引率でも任されたような心境で、低レベルかつ論点のズレた口論を始めようとしている新米コンビに修治はきっぱりとそう言った。説教したい内容も問い詰めたい内容もたくさんあるが、このままずぶ濡れの状況でやる程鬼畜ではない。正しくは、奏多だけであればその選択肢を採択しない事も無いのだが、元々ただの無関係な一般人である唯音はあくまでも身柄をお預かりしているようなお客様の状況なので流石に
躊躇われる。バイトという名目で身柄を借り受けているのだから、風邪をひかせる訳にもいかないだろう。
「あはは。ですよね。確かにコレじゃ風邪引きますもんね。…浴室乾燥機、ゴー」
唯音は何が可笑しいのか、自身の出で立ちを上から見下ろし、くすくすと笑って修治の言葉に同意した後、奏多を見て大仰に頷いて見せた。意訳すれば、さっさと乾かせということだろう。確かに、それは得意だと自己申告したのは他ならぬ奏多である。
「チョット!だからオレを便利な家電扱いしないでってば!」
浴室乾燥機が何を指すのが瞬時に理解したらしい奏多は、不満そうにそう言い返した後、小さく溜息を零す。それが合図だったのか、唯音が心得たように静かに瞼を伏せると、ふわりと優しい炎が2人を包み込んだ。くるくるととぐろを巻くように2人を包み込んだ柔らかい橙の炎はすぐに天に昇って消えていく。
「うんうん、便利な洗濯乾燥機だよね。一家に1台だよね」
炎が消えた気配に目を開けた唯音は、楽しそうな笑顔でそう笑った。
「せめて浴室か洗濯か統一してよ。アト、オレを便利な電化製品代わりにしないで」
毎度恒例となりつつある台詞を言い返し、奏多はやれやれといった風情で唯音を見下ろす。言葉では電化製品扱いするなと言ってはいるが、やっていることは乾燥機代理だと正直に教えてやる人間は残念ながら居ないようだ。
「…手前ら、帰ったら説教だかんな」
目の前で繰り広げられる馬鹿馬鹿しい光景に、急いで駆け付けた時間と心配してやった気持ちを返せと思いながら、黒は完全に脱力してそう告げた。怒鳴った時にピンと立っていた耳もしっぽも、疲れたようにたらりと垂れている。
「奏多くんは後で闇討伐の報告書も仕上げるのだよ?まったく、心配して来て見れば。…無事で良かったよ」
苦笑を浮かべて苦言を呈していた修治だったが、くだらない状況に面食らったのは確かだが、彼らが無事で良かったと、最後には心からの微笑みを浮かべて優しい瞳で2人を見つめていた。こんな風に彼らが笑っていられる時間が少しでも続きますようにと、奏多の事情を知っている修治は何かに願わずにいられない。当たり前だと思っていた光景が、ある日突然に奪われてしまう理不尽さを、修治は誰よりも知っていると思っている。少しでも、互いが大切だと想えるのなら、どうかその時間を精一杯楽しんで欲しいと、自分の未練を重ねて帝都観光の1番新しい主従を見守っていた。
「で、選んだ?」
「ナニを?」
「食器用、浴槽用、床掃除用、どのタワシになりたい?」
「お風呂で身体洗う用とかモウチョットマシなのナイの!?」
「タワシで身体洗うとか馬鹿でしょ、絶対痛いから」
「オレの毛はイタくない!」
大人しく帝都観光まで連行される道すがら、先導するように歩く黒の後ろで、低レベルな会話を繰り広げている唯音と奏多は、会話の内容こそくだらないが楽しそうに見える。
「そもそも手前、タワシじゃ無えって否定し無えのかよ」
先導していた黒が、呆れたように振り返って深く溜息を吐くのも、仕方ないかもしれない。そもそも奏多は最初、タワシと言われたらタワシを否定し、カピバライコールタワシと言われたらカピバラを否定していたはずだ。その流れを知る者からすれば、タワシは受け入れたのかと思わずツッコミたくもなるというものだろう。
「ゆいねが温泉カピバラ好きなら、オレは温泉カピバラでイイし」
ふわりと、花が綻ぶような柔らかい微笑みを浮かべて、奏多は言った。確かに、それは何かを受け入れた者の瞳で、うっかりその瞳を見てしまった黒は「そうかよ…」と小さく呟く。まるで、このままカピバラのまま一生を終えてしまう事を受けれたように思えて、弟のその決意を哀しく感じたのだ。
「…タワシちゃんより圧倒的に可愛い温泉カピバラの柚子さん」
ボソっと、僅かにしんみりとした空気をぶち壊すように、唯音が淡々とそう言った。言葉ではそう言っているが、奏多に向けられる瞳は好ましい相手に向ける深い親愛の色が
滲んでいる。楽しそうな、どこか倖せそうな笑みは、高校生という肩書よりも大人びて見えるが、生憎その表情を目にしたのは酷い言いぐさに思わず唯音の方を向いた奏多だけだ。
「ヒドイ!」
抗議の声を上げる奏多も、本気で落胆しているような様子はなく、あくまで形式的に言い返しただけのように見える。ただ、主従契約を結ぶ身としては、やはり1番だと言われたいとでも思っているのかもしれない。
そんな二人を包む空気を、最後尾から見ていた修治はただひたすらに、微笑ましいと感じていた。何時の間にか新米コンビの
醸し出す空気が、ぐっと密度を増したような気がして、何が起こったかを見た者は当事者だけだった今回の闇討伐の間に一体何があったのだろうかと勘繰らずには居られない。それだけの濃密な空気は、新米コンビだの急造ペアだの呼ばれるべきペアに出せる雰囲気ではなく、この2人はもしかすると…とこっそり想いを馳せる。
結局、帝都観光の本社ビルに向かう途中、急いで現場に向かった為に振り切られる形で置いて行かれた陽菜、綾香、そして小太郎と合流した。3人は、唯音と奏多が完璧に無傷であった事に少なからず驚き、陽菜と綾香に至っては安堵のあまり唯音に抱き着くに至ったくらいだ。小太郎は僅かに何か言いたそうに奏多をチラリと見たが、結局「無事で良かったです」とだけ言った。
「さて手前ら。しっかり説教される準備は出来てんだろうな?」
帝都観光の応接室の一室、茶室として作られている和室に新米コンビを正座させ、黒は開口一番そう言って黒猫から青年の姿へと変わる。
「…マタ正座」
つい先日、うっかり契約してしまって正座させられたのは記憶に新しい方で、奏多はもうどうにでもなれという雰囲気を
纏いながら、正座しているのか定かではないカピバラ姿でちょこんと座っていた。どことなくカピバラの毛並がツヤツヤとしており、タワシと呼ぶのは可哀相だと感じるくらい、毛の先まで生命力が行き渡っているようにすら見える。
「…さすがお風呂あがり…タワシちゃんのくせにツヤツヤ」
正座はしているものの、視線は黒ではなく隣のカピバラ姿の奏多に向け、あまつさえ毛並を撫でながら唯音は呟いた。
「…ゆいね、アレは風呂じゃナイ…」
毎度のように訂正せずにはいられなかったのか、これから叱られる状況だと言うのに奏多はボソリと傍らの主の言葉に異を唱える。お風呂の温度まで奏多の能力で温かくはしてあったが、あくまでも先程まで居た場所は川だ。重ねて言えば、決して風呂上りだから毛艶が良い訳でもない。
「手前ら、マジでいい度胸してるじゃねえか…」
地を這うような低音で、黒は緊張感の欠片もない主従を見下ろす。
「まず、なんで奏多はそんなツヤツヤしてんだ…?闇を祓った割には消耗どころか充電済みって感じなんだが」
説教を始める前に、黒は気になって仕方がない事を口にした。黒の目で見ても、唯音の言葉通りにツヤツヤしたカピバラなのである。本来の姿には戻れていないようだが、それでも消耗がまるで感じられないのは、違和感どころの話ではない。相性の悪い相手と一戦交えた後で、出掛ける前よりも生命力を感じられるというのは何かが変だと、流石に黒も気付いていた。
「………ご飯が美味しい…から?」
カピバラ姿の奏多は、一瞬だけ言葉を探すように視線を
彷徨わせた後、言葉を選ぶようにどこか自信無さげにそう言うと、チラリと唯音を見上げる。奏多の餌とは、つまり唯音の身体の一部であり血液を指しており、視線の先には首の噛み痕が制服のシャツの首元から僅かに覗いていた。
「わぁ。それは餌名利に尽きる…って言っとけばいいの?この場合。タワシちゃんが吸血鬼っぽいコト言ってる」
奏多からの視線と言葉を受け、唯音はきょとんとした表情でそんな感想を口にする。本当は味の良し悪しではなく、性能の良し悪しであり、その点に於いて褒められているのだが、唯音は解っていてあえてとぼける方を選んだ。
「いや、いくらそいつの潜在能力的な性能が良くても、早々引き出せるもんじゃねえだろ…?」
黒は自身の経験から、率直な意見でそう告げる。主従契約を結んで間もないコンビが、双方の能力を最大限に引き出せる訳がない。確かに初回お試しコースに連れて行った際の奏多と唯音は急造ペアっぽい初々しさはあったものの、何故か奏多の能力が安定して行使されていたという不思議な現象は起こったが、それが毎回あっさりと起こってしまったら
所謂チートというやつだろうと真剣に考える。偶然に偶然が重なっただけの結果を過信するようになっては困るし、ド素人の一般人である唯音に知識がないまま、今日のようなことを繰り返されても困るというのが、帝都観光の人外たちの長兄である黒の偽らざる本心だ。
「オレのご主人がカピバラガチ勢だから…?」
「私、今日から温泉タワシ過激派名乗ろうかな…」
黒の疑問に、相変わらず息の合ったズレっぷりで奏多と唯音はまるで打ち合わせたかのようにそう言った。あくまでもカピバラを名乗る奏多と、カピバラをタワシと呼称する唯音ではあるが、確かに仲は良さそうに見えなくもない。
「手前はカピバラじゃねえだろ…」
ボソリと、黒は忌々し気に小さく零す。カピバラでいる事を受け入れてしまった奏多を想うと、兄として悔しいような淋しいような何とも言えない感情がこみ上げてくる。少しでも
永らえるようにと真実を唯音に話すのは簡単なのだが、そこまで巻き込む決心もつかない。そもそも、それを奏多が望まないのであれば拗れるだけだと、黒は理解している。だから、忌々し気に小さく気持ちを吐露するしか出来なかった。
「ゆいねがカピバラがスキなら、オレはカピバラでイイって言ったじゃん」
相手の気持ちを知ってか知らずか、奏多は無邪気な声でそう笑う。カピバラの姿であっても、柔らかく微笑んだのが解るくらい、穏やかな声音だった。
「……そうかよ。…とにかく、説教だ、説教」
小さな舌打ちと共に、黒は気持ちを切り替えると改めて2人を見下ろす。
「題して、黒先生のカピバラでも解る属性相性について、しっかり叩き込んでやろうじゃねえか」
「…わー、ぱちぱち」
開き直ったように、
啖呵を切った黒とは対照的に、唯音は無邪気な表情で暢気に手を叩いて見せた。ぱちぱち、と口で音を出している分、手は形だけ叩かれているだけで音は鳴っていない。はっきり言ってやる気がないように見えるのだが、それでも大人しく正座はしているので一応聞く気はあるのだろうと辛うじて窺えた。
「いいか?奏多の力は基本的に火として発現すんだが、まぁもう見てるから解ってんな?」
黒はやる気の無さそうな生徒の態度を敢えて無視し、今後どうしても必要になってくる知識を叩きこむべく説明を始める。
「五行思想だとか五行説って聞いた事ねえか?火は水に弱えんだが」
さて何処から説明しようかと、黒は基本から話を始めた。日本で闇に対する対抗手段が体系化されたのは平安時代、陰陽師の時代である。現在は西洋の四大元素説の方が色々と主流になっているが、闇退治に関していえば五行思想に準じて体系化されているため、先ずはそれを理解して貰わなければならない。
「古代中国の自然哲学の思想。
相剋の関係で、火は水に弱いって事でしょ?」
黒の説明を遮るように、唯音はくすくすと笑ってあっさりと言葉を補完し、知っていると笑って見せる。五行思想とは、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説だ。また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在しているとされている。
「授業で習ったので知ってたり」
あははと笑いながら、唯音は詳細は理解出来ていると種を明かした。もっとも、習ったのは学校の授業ではなくまったく別の授業で習ったのだが、わざわざそれを口にする必要はなかった。
「…最近の学校はそんな事まで教えんのかよ」
現に黒は完全に勘違いをして、知識の仕入れ先は学校だと思ったらしい。
「ま、知ってんなら、水と相性悪いのは理解してんだよな?解ってて何で水ん中入ってったんだ」
言外に危険意識の欠如を指摘しながら、黒は呆れた口調でそう続けた。帝都観光の人外たちの中で、黒を長兄とする兄弟たちの中でも本来の能力を発揮出来れば奏多は上位に君臨する強さの持ち主だ。本来の姿を取り戻し、生命力をすり減らしていく呪いとやらが消えさえすれば、あの程度の実体も持たない闇などに後れを取る事はない。相性が悪かろうが、圧倒的な力の差で捻じ伏せるだけの能力は有している。しかし、現状ではそれは限りなく無茶だ。
「カピバラは泳ぐのが得意な生物なので。得意でないのなら、教えてあげようと思って」
にっこりと悪びれなく笑って、唯音はただその為に水の中に入ったと豪語した。唯音自身、水と相性が良いのか幼い頃からかなり泳ぎに長けており、ぶっちゃけると女子高生姿でブレザーまでしっかり着込んでいても、海で一定以上の遠泳が出来る自信はある。それくらい得意なのだから、多少闇の影響があろうと深くも無い川は
畏れるに足らずと判断したのだ。
「オレ、泳げないなんて言ってナイけど。ちゃんと泳げるし」
結果論、奏多は普通にカピバラ姿でもスイスイ泳いで見せた。泳ぎ方が、カピバラらしくスイーっと緩やかに泳ぐのではなく、本来の姿の犬科の生物らしく犬かきではあったが、本人の言葉通り沈むことなく泳げている。
「じゃあ苦手じゃないじゃん。何で苦手って言ったの」
「オレが言ったのは、能力の相性が悪いってイミ」
放って置くと、また低レベルな痴話喧嘩のノリで話しそうな唯音と奏多に、黒はやれやれと盛大にため息を吐いた。
「たまたま誰も通らなかったから良かったが、手前らすげえ恥ずかしい事してたんだぞ。解ってんのか」
あんな浅い川で、女子高生とカピバラが季節感を無視して水遊びという構図は、傍から見ればかなり恥ずかしい。黒は既に3桁を超える奏多の年齢と、高校生という唯音の肩書を考え、決して子供ではないはずなのだがと頭を抱えたくなった。
「囲えるんならともかく、無関係な一般市民に見られて通報でもされたら面倒だろうが。俺らはあくまで慈善事業だが、善良な一般市民が受け入れてくれるとは思えねえだろ」
下手をしたら警察に通報され事情聴取されかねないのだと説明し、黒は再び大きく溜息を吐く。黒たち帝都観光の人間が公安と呼ぶ、一昔前に袂を別った公的機関、国家公務員の闇退治特別チームのメンバーならまだしも、あくまでも一企業預かりの人間である黒たちは法規的手段に対抗する手段を持ち得ない。その結果、世の為人の為に身を粉にして尽くしているというのに、人目を
憚らなくてはならない矛盾が生じている。
「まぁまぁ、宅急便もそんなに言わないであげてもいいんじゃないー?」
黒が更に何か小言を口にしようとしたが、その前に部屋のドアが開いてそんな暢気な声が割り込んで来た。脱色して染めたと思われる淡いミルクティー色の髪に、シルバーやレザーのアクセサリー、重ね着されたティーシャツの胸元にはサングラスがひっかけられているという、如何にも遊んでますという雰囲気のチャラチャラした見た目の青年が、器用に片手に銀のトレイを乗せて顔を覗かせている。人の姿だと金髪金目に褐色の肌というこれまた遊んでそうなイケメン奏多の隣に並べたら、2つ3つ程年嵩に見える
闖入者の青年とセットでホストのキャッチのお兄さんに見えるかもしれない。チャラチャラした服装に、調子の良さそうな明るい雰囲気だが軽薄ではなく、見た目に反して穏やかで優しそうな声音が、その青年をミステリアスな雰囲気に見せている。勿論、顔面偏差値は文句なしにイケメンの分類だ。
「
風真、俺は宅急便じゃねえぞ」
闖入者に対し、黒が苦虫を噛み潰したような表情でそう言いながら、当然のように銀のトレイを奪い取る。そのまま、トレイに乗ったお茶やお茶請けを大人しく正座している唯音と、その隣で図体の割に縮こまっている印象のカピバラ姿の奏多の前に置いてやった。
「あははー、まぁ黒猫は宅急便でしょー?それより、兄さんをうちの
首領が呼んでたよー?俺はお茶の運搬と伝言係担当ー」
へらへらと人の良さそうながら軽い笑みを浮かべ、風真と呼ばれた青年はひらひらと手を振る。用もなく現在進行形説教中のこんな場所に現れたわけではなく、言葉通りきちんと用事があって現れたらしい。
「ったく…。俺は忙しいんだがな。しょうがねえ、ちょっと行ってくるわ」
首領のお呼びを無視するわけにもいかず、面倒だという雰囲気を隠しもせずに黒はやれやれと後ろ頭を掻いた。せっかくお茶も持ってきて貰ったというのに、この場で解散も忍びないと、チラリと視線を巡らせた後、黒は名案だとばかりに表情を明るくする。
「風真、手前、囲うのとか護り系得意だろ。そこの新米主人に手解きしてやってくれ。最低限、囲うなり何なり出来るようになりゃ、もうちょっとマシに仕事出来んだろ」
これは何という名案かとでも言うように、明るく言い放つと、黒は異論など唱える相手はいないだろうとばかりにさっさと部屋を出て行ってしまう。
「…えー…
本気でー?」
目の前で無常にもドアが閉まり、残されてしまった上に手解きなど依頼されてしまった青年は、乾いた笑みを浮かべて唯音と奏多を交互に見る。
「俺は無関係を貫こうと思ったのになー…」
嫌悪は感じられず、むしろ優しい雰囲気を
醸し出しながら、青年は諦めたような笑みを浮かべてそう呟いた。どうやら無関係のままでは居られないらしいと悟ったのか、何から教えるべきかと思考を巡らせる。
「とりあえず、俺は
風真って言うんだー。ソコのカピバラや宅急便の兄弟って言えばいいかなー?」
まずは自己紹介から、何事もはじめが肝心。青年は自らそう言い聞かせ、唯音に向けて笑みを見せた。
「…という事は、何のナマモ…いえ、イキモノですか?ぜひ見たいです」
「ゆいね、イマ、ナマモノって言おうとしなかった?」
もはや何の動物が出てきても愛でる勢いで、唯音はにこにこと自己紹介を受け入れ、さらに突っ込んだ質問をぶつける。うっかり素で変な言い回しをしそうになったが、唯音本人的には寸での所で回避したつもりだ。しかし、すっかり阿吽の呼吸で何が言いたいか理解出来てしまった奏多は、伏せられた文字まで正しく読み取り、そして毎度のようにツッコミを入れる。
「あははー、仲良しだねー?俺はこういうものだよー」
ポンっという可愛らしい音と共に、チャラいイケメンは何とも愛らしい独特のフォルムの生物へと転じた。
「…わぁ、
有間次郎さん、こんにちは」
唯音は、目の前に現れた銃弾をも弾く鎧を着こんだ可愛らしいアルマジロに、キラキラした瞳を向ける。可愛い、愛でたい、触りたいと訴えるような明るい表情で、完全に素の性格丸出しでそう言った。
「ちょっと、変なイントネーションで呼ばないで貰えるー?今、絶対変な名前付けたでしょー」
敏感に唯音の言葉を聞きとった風真は、イントネーションとニュアンスの違いに苦笑しながら、苦言を呈す。何だか少し前にもこんな風に誰かに言い返した記憶があるなぁとまるで孫と戯れる祖父の心境で考えつつ、正すところはきちんと正した。
「それでー?そっちも名乗ってくれたりするのー?」
人外の生物である風真たちにとって、名乗りは重要だ。名乗って、名乗られる事で、初めて相手から人外である自分たちの存在を
赦されるようなもので、お互いに正しく相手を認識するための一種の儀式である。だから、自分たちは過去に名乗りたくても名乗れなかった事もあったし、敢えて名乗らない事もあった。しかし、風真にとって今目の前にいる少女は、自身の兄弟の主であり、間接的にも護るべき存在として認識した相手だ。だからこそ、相手にも受け入れて貰う必要があると、敢えて名乗りを要求した。
「あ。そっか。もうみんな知ってると思ってたよ。
佐倉唯音。高校2年生まっただ中。名前は好きに呼んでね」
唯音にとって、奏多が自分にとってどういう存在か正確に理解した時点で、芋づる式に黒は過去に『おにいちゃん』と呼び慕った相手であると気付いている。今、目の前で可愛らしいアルマジロに転じた風真に対しても、浮かんでくるのは懐かしいという感情だった。もちろん表面にその感情を覗かせる事はないが、昔はよく転がさせて貰ったなぁと思い出して楽しい気持ちになるくらい、唯音にとっては知っている相手だったので、相手もそうだと思い込んでしまい名乗るのを忘れていたのだ。
「そっかー。じゃあイオちゃんって呼ぶねー?」
よろしくと笑って風真はアルマジロ姿のまま、とてとてと歩き、そのそこそこ短い手、前足をそっと唯音の手に触れさせる。
唯音にとって始めましてではないけれど、風真にとっては初めましてになるだろう状況に、唯音は心底嬉しそうに笑って、アルマジロの手を取ってぶんぶんと上下に振ったのだった。
作者:彩華